石川県から西出家が赤平へ

1896年(明治29年)に西出家が石川県から赤平に入植する。明治三陸津波、信濃川の決壊など、内地では災害で騒然としていた年だった。1938年(昭和13年)入植から三代目の西出喜一が住友赤平鉱株式会社の荷扱所を創業。後の西出興業の基盤となる。ナチスドイツがオーストリアを併合し、国内では国家総動員法が施行されたいた。

 

住友の土地の世話をする

西出喜一は赤平産まれ。住友が赤平に炭鉱を開くに当たって、土地の取得など、地元地主達との取りなしをする立場であった。喜一は現社長の勝利に対し「お前、一生懸命やれよ。一生懸命であれば失敗したって、手に入るものはある。一生懸命やらなければ、何も手に入らない。失敗したっていいんだから、失敗を恐れないでやれ」と、何度も言い残している。勝利をして「素晴らしい“事業家”」と賞される喜一。勝利は経営者と事業家は違う存在であると考えている。経営者はすでにある経営を地道に発展させ継続するもので、事業家はその時代の次にくる要求を見抜いて、新しい事業を起こして事業展開をする人とだという。喜一は天性の“事業家”であった。

 

 

創業から多角経営

喜一は住友の炭鉱に馬を入れ運搬する作業(「荷扱」と言う)を担当していた。馬は炭鉱にはいると、二度と出て来ない。環境の変化に弱く、電圧の低い感電でも簡単に死んでしまうという。だから常時70頭を常に飼い、道東から仕入れて、調教をして、準備をしていた。喜一は西出組を作り、いくつかある組みの一つとして、荷扱に加え、坑内の掘進も担当した。つまり採掘のためにトンネルを削って、坑木を建てる仕事だ。そして、その技術を炭鉱住宅や住宅街の道路建設にも役立てる。創業時から多角経営を行っていた。他にも複数あった組の中で現在でも企業として継続しているのは西出興行だけだそうだ。赤平に本社を置き、売り上げの7割を赤平の外に求めている。