『北海道旧纂図絵』(函館市中央図書館所蔵)によると厚沢部町の館村に「第十四国分館」と呼ばれる中世城館があったと記述されています。館主は松前大館の守護村上政儀の家臣江口権之頭顕輝とされています。


また、松浦武四郎が弘化3年(1846)に訪れた際の記録(『再考蝦夷日誌』)では「むかし、この村に酋長一人居住せし」とされており、館主のような豪族がすんでいたことが伝わっていたようです。

また、字名改正前の小字名では、国分館跡周辺は「館野沢」となっており、「館」という地名が国分館跡周辺を起源とするものであったと考えられます。

昭和45年の埋蔵文化財所在調査では陶器片が採取されています。

(文化遺産を活かした「素敵な過疎のまちづくり」推進協議会,2015『厚沢部町文化遺産マップ』より)


『北海道旧纂図絵』(国分館の項抜粋)

 

北海道旧纂図絵 巻七

 垬著 外曽父松前老圃広長蔵

 再草案纂北見伝治校閲

 

北海道十七ケ館第十四

国分館

桧山郡館村より午の方三町隔て古名厚沢部といふ小丘にして風景(空欄1447文)安四丁卯年四月館権太郎源頼重(村上政儀の臣なり)江 三郎義盛(村上政儀の臣 館頼重舎弟也、義盛長禄三己卯年夏六月二十六日夷賊のため上国村川原出賜て戦死) 二卋江口民部焏幼小太市義蕨永世八辛未年夏四月十六日亀田郡志苔村出賜て蝦夷流矢の為戦死)

權顕幼小三郎顕輝初め伯父館頼重跡継後干舎兄義顕の養継と成る

永正十癸酉年夏六月二十七日顕光村上三河守政義相原周防守政胤 ―――(空欄)―――

倶に松前郡大館蝦夷賊のために兵卆ま以上二十余人戦死後干此の国分館權頭輝顕跡目女留るに依て廃滅子孫は桧山郡江差港漁富長者江口重右衛門といふ

(2016.1.24石井淳平