国道227号線沿い、鶉ダムを望む道路脇の休憩所にあります。箱館戦争の古戦場である「稲倉石古戦場」に設置されています。同名の石碑が函館山山腹にもあります。

ちなみに、函館山碧血碑は、箱館戦争終結後、梁川熊吉が日蓮宗実行寺の住職日隆と共に、幕軍兵士の遺体収容・埋葬を行ったことがその発端。梁川は、その後、明治四年に函館山に土地を購入し、幕軍兵士の遺体を実行寺からここへ移しています。
 

明治七年に明治政府が幕軍兵士らの祭祀を許可したことにより、柳川は榎本武揚や大鳥圭介らと協力して、 明治八年五月に現在の碧血碑を建立しました。碧血碑の建立者である梁川熊吉は、江戸浅草の出身の侠客で、幕臣とも親交があったといわれ、その縁もあってか五稜郭の築造工事に従事するため渡道し、箱館を拠点として活動していたとされます。

厚沢部稲倉石の「碧血碑」は、大正8年8月に旧松前藩士蠣崎知次郎が、稲倉石の古戦場に建立。函館山の「碧血碑」は、旧幕府軍兵士を悼むものですが、こちらは、松前藩士を悼む石碑です。建立者の蠣崎は、道庁の農業技師で、厚沢部近辺には農業指導で訪れていたようです。

題字と碑文は函館の土子毅によるものです。

土子毅は「函館人物誌」によると

会津白虎隊の生き残り土子定国の長男。
明治9年函館生まれ。
東京外語大ロシア語科から慶応義塾へ進み、福沢諭吉の教えを受ける。
卒業後、数年間は教師、海事局などで勤務するが、明治40年に退職。
その後は高等遊民を気取っていたようだ。

とあります。多芸な人物であったと思われます。

(2007年 12月 21日付「碧血碑」『厚沢部文化財日誌』を改変)