上俄虫鹿子舞

天正年間(一五七三〜一五九一)、陸奥国福島から徳兵衛が移住してきた。

その後文化年間(一八〇四〜一八一七)陸奥国福島のある部落の納屋に鹿子を箱に入れて保管していたが、ある時、納屋がさわがしいので見ると三匹の鹿子が箱の上で踊っているのを見た。なにか悪いことが起きそうで、鹿子を川に流してしまったという。

その年から、部落に火事や災難がおこり鹿子のたたりではないかと言われていた。この話を聞いた上俄虫の人たちは鹿子舞を継承して供養したいと鹿子分けを願いはるばる指導にきていただき、教えを受けたのが今の鹿子舞の始まりと言われている。部落では毎月八月七日盆に鹿子の魂入れをおこない、九月十三日鹿子納めの日をするならわしとなっている。

 

土橋鹿子舞

延宝二年(一六七四)青森県津軽郡南部平内から杉野喜三郎という人が杣夫として土橋に住んだ。この人たちが江差の豊部内の人たちの誘いを受けて鹿子を分けてもらったのが始まりである。

元禄(一六八八〜一七〇四)のころ、檜山奉行所の青山という武士がヤマメ釣りにでかけたところ、豊部内川をさかのぼって笹山のふもとについたとき、近くの丘から鹿のむれがなく声がきこえた。様子をうかがうと、一頭の女鹿を数頭の男鹿がこれを囲みあらそっていた。そのうち、女鹿はススキのかげにかくれてしまった。

男鹿はおどろいてさがしまわっていたが、一頭の若鹿が女鹿をみつけた。そこで、また他の男鹿とあらそいになったが、やがてあらそいをやめて踊りながらみんなで山へ帰っていった。

このありさまを見た青山という武士は、家にかえって人々にこの話をきかせ、また、この様子をお祭りのときの舞にしようと考えた。猿楽、田楽、アイヌのユウカラなどの話を取り入れて舞をつくりあげた。

宝永元年(一七〇四)八月、松前藩主矩広さまの奥さまが子どもを失って悲しみにくれているとき、江差の鹿子舞をまねいてはということで、檜山奉行の蛎崎兼健に相談して、松前城の奥御殿で鹿子舞をおどった。これをみた奥さまはようやく元気になり傘や帯をくださった。こうして、檜山奉行所で鹿子舞を踊ることになった。