館城の概要

安政 2 ( 1856 )年の幕府による蝦夷地直轄により、松前藩は蝦夷地における利権を失い、北海道南西部の狭い領域での藩経営を余儀なくされることとなった。このため、松前藩では厚沢部川流域を中心に水田開発に着手した。こうした背景をもとに松前藩は水田開発の中心地である厚沢部川中流域の館
村へ拠点の移動を企画した。

館城跡は、明治元( 1868 )年 9 月に松前藩によって築城工事が開始され、同年 11 月、榎本武揚率いる旧幕府軍の攻撃を受け落城した。その後、大規模な開発行為の影響を受けず現在に至る。落城後の館城跡の姿は、明治 19 ( 1886 )年に館城跡を訪れた北海道庁理事官青江秀 [2] や、明治 21 ( 1888 )年に館地区に入植した二木小児郎 [33, p48] によって、門柱の焼け跡や井戸跡などが確認されている。館城跡周辺は、明治 30 年代に松村農場の所有となり、その後、田口伊右衛門、前川吉三郎と所有者が変わる。この間、堀・土塁の削平を始め、農地造成のために多くの遺構が破壊されたと考えられるが、中枢部分のみは農地造成から守られ、礎石などが良好に保存されている。戦後の農地解放で約 3 分の 2 が民有地となり、残る 3 分の 1 の土地所有者となった前川は、昭和 33 ( 1958 )年に所有地を町に寄付した。

昭和 30 年代に入り、史跡保存への関心が高まり、昭和 37 ( 1962 )年に館城跡保存会が発足した。保

存会では挽馬競技会を開催し、その余剰金を案内板の製作や桜樹の植樹費用に充てるなど、史跡の保存と周知に務めた [16] 。

昭和 39 ( 1964 )年 6 月 15 日に、町は館城跡を北海道指定文化財として申請した。同年 10 月には高倉新一郎氏、大場利夫氏らが館城跡の発掘調査を実施し、陶磁器、鉄釘などが採集された [22] 。また、昭和 39 年 10 月 4 日の日付のある『館城趾現況実測図』が作成されている。これらの調査結果に基づき、昭和 41 年 7月 7 日付北海道教育委員会広報第 2945 号で、「館城跡」として道指定の告示(北海道教育委員会告示第 65 号)がなされた。

昭和 50 ( 1975 )年第 2 回定例道議会において、館城跡の国指定と復元について質問がなされ、このことについて檜山教育局を通じて厚沢部町に照会(昭和 50 年 7 月 22 日付 50 教文第 2217 号北海道教育庁振興部文化課課長照会)があった。厚沢部町教育委員会では「(前略)将来、本史跡を重要な記念物として国の指定及び復元を行いたいと思っている」(昭和 50 年 8 月 6 日付厚教社教育長回答)旨回答した。

昭和 63 ( 1988 )年頃から、町では国の史跡指定へ向けての取り組みを進め、同年 8 月には文化庁調査官の現地視察が行われた。昭和 63 ( 1988 )年 9 月 29 日∼ 10 月 13 日、平成元( 1989 )年 10 月 2 日∼ 11 月 4 日、平成 2 ( 1990 )年 10 月 2 日∼ 16 日の 3 ヵ年にかけて、遺構確認調査が十勝考古学研究所・厚沢部町教育委員会 [4, 5] によって行われ、溝や柵、礎石などが検出された。平成 13 ( 2001 )年6 月 25 日、史跡松前氏城跡福山城跡の追加指定の申請をし、平成 14 ( 2002 )年 9 月 20 日付官報号外第 208 号で、「史跡松前氏城跡 福山城跡 館城跡」として国指定の告示(文部科学省告示第 183 号)がなされた。なお、北海道文化財保護条例第 32 条第 2 項の規定に基づき、平成 14 年 11 月 13 日付北海道教育委員会告示第 84 号で、道の史跡指定は解除された。

 

館城の築城から落城まで


13 代藩主崇広の死去と徳広の藩主就任


松前藩 13 代藩主松前崇広は、慶応 2 年 4 月に病死する [29] 。崇広の死後、 12 代藩主の嫡子徳広が藩主に就任するものの、病弱な徳広は政務を執ることができず、藩政の中枢は、松前勘解由など崇広時代の重臣らが掌握したままであった。こうした状況に反発する反勘解由派の藩士達が、『建言書』 *4 を藩主徳広に上申した。これにより松前勘解由は家老職を辞すこととなるが、反勘解由派の蠣崎民部らは脱藩の罪に問われ、また、藩政は依然として勘解由派が取りしきっていた。

 

正議隊のクーデター

明治元( 1868 )年 7 月 28 日、反勘解由派の藩士達は、『正議隊建白書』 [19, pp.465-468] を藩主徳広に提出した。『建白書』を受けた徳広は、勘解由ほか 4 名の重臣の登城を差し止めたが、勘解由らはこれに従わず、町役所に諸士を呼び集め密議を行なったという *5 。7 月 29 日、江差奉行尾見雄三が、江差在郷藩士らを率いて江差から出動し、 8 月 1 日に福山城下へ到着した [21] 。尾見は、かねてから江差在郷の藩士や江差商人団を反勘解由派に引き込んでおり、江差商人団が反勘解由派の資金源となったとの見解がある [21, p5] 。尾見の到着により勢力を増した正議隊は、 8 月 1 日から勘解由派の粛清を開始した。一連の粛清は、 9 月 24 日の山下雄城の処刑をもって一段落し、勘解由派の主要人物のほとんどを殺害する結果となった。

 

館城の築城

館城築城工事の経過は、勘定奉行兼作事方を任命された江差の豪商、関川重孝(平四郎)が残した日記 *6 によって、うかがい知ることができる。以下は関川平四郎日記から抜粋した館城築城工事の様子である。


9 月 2 日に館村の鈴木文五郎に宛てて遠眼鏡を送ったことが記されており、この時期に、担当者が現地入りしていたことを知ることができる。 9 月 14 日には、大工四十人・木挽十人が館へ向けて出立している。 9 月 21 日には、福山から大工棟梁孝次郎はじめ、下職 28 名が江差へ到着し、館へ向けて出立している。

また、 9 月 12 日頃から土木作業が開始されており、 9 月 23 日現在の延べ人工数は、 1,525 人工に達している。 9 月 28 日現在の館城普請に係る人員は、大工棟梁浜田仁兵衛、幸治郎以下、大工小頭五人、木挽 2 人、平大工 92 人、下木挽 21 人、土方小頭 7 人、土方 243 人、人足 183 人となっている。

10 月 14 日には、建具師 3 人が木材と供に館へ向かっており、また、 10 月 16 日には、間似合、唐紙、玉子などの襖材料が館へ送られており、館城普請は、内装作業へと移りつつあったことがわかる。


10 月 24 日には、棟上げの儀式が行われたことが記されており、城内の重要な建物の棟上げが行われたことを知ることができる。 10 月 26 日には、七飯峠下での旧幕府軍と新政府軍との戦闘を受けて、三上超順や今井興之丞が、手勢を引き連れて木間内まで出張している。館城普請の最終的な結果については触れられていないが、関川重孝の築城日記もこの 10 月 26 日をもって終わっており、この前後に、館城の普請もほぼ終了していたと考えられる。

*4 『慶応二丙寅十一月旧寄合中より建言書』 [19, pp.463-465]
*5『奉命日誌』 [19, pp.429-463]
*6 いわゆる『館城築城日記』で、関川重孝の記した「一番日記」から「八番日記」がある [20, pp.1220-1301] 。
 

 

館城攻防戦


明治元年( 1868 ) 11 月 10 日、館城攻略のため松岡四郎次郎率いる幕府一連隊約 200 名が箱館五稜郭を出陣した。松岡隊は大野 *7 を経て 12 日に鶉川上流の稲倉石に到達した。稲倉石には松前藩の防御陣地 *8 が設けられており、松岡隊と松前藩の交戦が行われた。狭い谷筋の道を封鎖した松前藩陣地に対して松岡隊は左右の岩山から攻撃を行いこれを突破した。翌 13 日、松岡隊は鶉村に宿陣する。 14 日、松岡隊は全軍の約半分( 2 小隊)を館村へ偵察に向かわせたところ、館城から出撃してきたと思われる松前藩軍と遭遇し、戦闘状態となった。松前藩軍が撤退したため大きな戦闘にはならなかった。

この間、俄虫村 *9 から出撃した別の松前藩軍が、鶉村の松岡隊本陣に攻撃を加えた。松岡隊は残る 2小隊で防戦しこれを撃退した。

15 日、松岡隊は 3 小隊で館城攻撃を開始した。松前藩の抵抗により戦闘は膠着状態となったが、差図役伊奈誠一、越智一朔らが城内に潜入し門を開けたため、松岡隊は城内に侵入した。形勢不利となった松前藩兵の多くは脱出し、松岡隊は館城を占領した。兵力不足のため、館城を守備できないと判断し、火を放って鶉村に帰陣したという。

 

(厚沢部町教育委員会,2015『館城跡保存整備基本計画』より)