厚沢部町の字鶉と鶉町は小鳥の名前のついた可愛らしい地名です。厚沢部町の語源といわれる「桜鳥」も素敵ですが、「鶉」という地名も素朴で好ましいものです。なのですが、本当に小鳥の名前が起源なのか、ということをちょっと検証してみたいと思います。

 

古い文献にでてくる「鶉」


鶉という地名が初めて文献に現れるのは、天明五年(1785)から行われた幕府の蝦夷地調査の記録の一つである「西蝦夷地場所・地名・産物・方程扣」です。
厚沢部川沿いの平地がみな畑になっていることを記した後、「(前略)アンノロ村・ウツラ村・コサナイ村・ニコリ川村。夏のあいだ畑作、秋は鮭漁する。」と記録しています。「ウツラ村」が鶉村と考えられます。
厚沢部町史『桜鳥』(第1巻)では『松前髄商録』(同じく天明五年頃の記録)に登場する「ウカワヒキ」という地名はウツラのことではないかと推測しています。

時代が下った天保年間(1830年代)に成立したとされる『松前国中記』では厚沢部川の奥にある小村として「エゾ村・目名村・ウツラヒキ村・アンノロ村・エハシ村」が記されています。「ウツラヒキ村」が鶉村と考えられますが、かつては「ウツラヒキ」と呼ばれていた可能性を示す貴重な記録です。

安政元年に箱館開港にともなう箱館奉行所の開設をきっかけに箱館〜江差間の道路開削が行われました。
この道路は俗に「鶉山道」と呼ばれたようで、これ以降の記録には「鶉村」の表記が一般的となります。

以上のように、「鶉」という地名が漢字表記されるのは比較的近年になってからのことと考えられ、古くは「ウツラ」あるいは「ウツラヒキ」と呼ばれていた可能性が考えられます。

ところで、所在が不明となっている『元禄十三年檜山絵図』という名称で知られている檜山南部地域の地名を書き記した絵図があります。
この資料は、昭和28年8月に行われた「檜山開発記念祭」というイベント会場に展示されていたもので、その後所在がわからなくなっています。
『上ノ国町史』の編著者である松崎岩穂氏が書き写した図が『上ノ国町史』(p471)に掲載されています。
この図には「ウツラ越」という地名がみえており、元禄十三年(1700)時点で「ウツラ」という地名が厚沢部川流域にあったことが確認できます。

資料の信ぴょう性が問われますが、この絵図が鶉(ウツラ)という地名が登場する最古の記録であると考えられます。

以上を整理すると、
(1)1700年頃から「ウツラ」という地名が確認できる。
(2)漢字表記の「鶉」は江戸時代末期に登場する。
(3)地名の「鶉」が鳥のウズラと関連付けて考えられるのは江戸時代末期の漢字表記以降のことである。
といったところです。

「鶉」という漢字表記の出現が比較的新しいことから、私は「鶉」地名の語源としては、鳥のウズラよりもまずアイヌ語起源である可能性を考えたいと思っています。




アイヌ語地名だとしたら語源はなんだろう?


アイヌ語地名として「ウツラ」の語源を考えた場合、これまでの地名研究の成果を参考にすると以下のような候補が考えられます。

(1)「ウツ・〜()」などの「ウツ」地名との関係
(2)「ウツラ・〜(〜・間)」などの形容詞
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アイヌ語地名研究の第一人者として知られる山田秀三(1984『北海道の地名』北海道新聞社,p178-179)によると、「ウツ」地名は、「ウツ・ナイ」など、全道にたくさん知られていますが、その語源は今ひとつはっきりしないようです。
タンチョウの飛来で有名な苫小牧市のウトナイ湖が「ウツ」地名の代表格ですが、やはり語源がはっきりしません。

「ウツ」自体は「肋骨」と訳されるようですが、「ウツ・ナイ」=「肋骨・川」では意味がとおりません。
「ウツ・ナイ」を「横・川」と解釈している研究者もいますが、これもよくわかりません。
肋骨のように川が横走する(グニャグニャと曲がっている)ことを示しているとも言われますが(山田前掲)、解釈としては強引さが否めません。

そもそも、鶉川は厚沢部川下流や安野呂川と比べてとくにグニャグニャと蛇行しているとは思えません。


(1920年発行5万分1地形図)



「ウツラ」は「〜の間」という形容詞ですが、「ウツラ」単独では地名としての意味をなしません。
また、「ウツラ・〜」という地名も道内では類例がありません。
(ウトロがウトゥル=ウツラ地名の典型とのご教示をいただきました。)

以上のことから、「鶉」の語源は鳥のウズラではない、と考えてはみたもののアイヌ語起源である確証もえられないのでした。

 

「内浦に行く」がなまって「ウツラ」

信ぴょう性は低いと思われるのですが、鶉部落の郷土誌『あの歳この日 鶉本村部落誌』(鶉郷土誌編集委員会1981,p13)には以下のような記述が有ります。

江差から落部に通ずる”アイヌ”達の「踏み分け道」として、小鶉川上流を越えていく道と、安野呂、清水を越えてい行く道があったので、小鶉川上流から越える旅人は「内浦に行く」また、向ふから来た人は「内浦から来た」と言い誰となし語り合ったことから「うつうら」が「うつら」「うずら」となまってついに「鶉」という地名になったとも言い伝えられ

 

 

 

(170302 石井淳平)