厚沢部町の高齢者住宅「ゆいまーる厚沢部」に建設補助金1億円を出すことについては、厚沢部町議会始まって以来かもしれない、否決という結果になりました。 その後、町は「入居者支援」という名目で、入居料の値下げを条件に、再び「ゆいまーる厚沢部」に補助金1億円を支出することを提案し、議会で可決されました。しかし、それから2年もたたないうちに「ゆいまーる厚沢部」入居料を値上げしたのでした。 一連の議会質疑の様子を議事録から読んでみたいと思います。 2013年第2回定例議会 「ゆいまーる厚沢部」に「入居者支援」という名目で、1億円の補助金を支出する提案があった際の質疑です。質問者は加藤古志男議員です。 加藤議員質問 加藤議員がゆいまーる厚沢部に対する1億円の支援について以下の4点を質問しました。 補助額の1億円の根拠を教えて下さい。 4月22日の議員協議会で示された案「ゆいま~る入居者と町内のグループホーム入居者への支援」がなくなった経過とその理由。5月9日の提案になったいきさつを教えてください。 CN(コミュニティネット=ゆいまーる厚沢部の経営企業)に補助金1億円をまとめて出すことに疑問を抱きます。入居料4万円を入居者に補助するなら、毎月入居者に直接支払うべきと思いますがいかがですか。 入居者に一律4万円補助するとしているが、個々に所得も資産も違います。補助額も所得・資産を考慮して決めるべきと思いますが、いかがですか。 この質問の前段に厚沢部町ではゆいまーる厚沢部を経営する「コミュニティネット」という会社に建設費用1億円を補助しようしたところ、議会によってこれが否決されるという事態になっていました。そこで、町では、「入居者への支援」という名目で入居料を下げる代わりにコミュニティネットに1億円の補助をする提案を出してきたのでした。 質問に対して渋田町長は次のような答弁をしました。少し長いですが、全文引用します。 「まず、平成24年第3回定例会に、CNからの要請に基づいて、建設費の一部として3億5,700万円の経費の中で、林業補助金を差っ引いた2億2,000万円強だったと思いますけれども、このうち町の補助規則に基づく2分の1以内ということで、1億円を補助することで24年度補正予算に計上いたしましたけれども、御理解が得られませんでした。その後、数回の協議を経ながら平成25年3月の第1回定例会後の第4回議員協議会におきまして、家賃の補助について提示しまして協議をいたしましたけれども、建設費への1億円助成がなくなったことによって、介護保険料を除く冬期入居者は16万1,000円というふうな会社側の設定になりました。それを受けて、4月22日開催の第5回協議会では私どもが三案の説明をいたしましたけれども、第4回協議会の協議経過を踏まえて、町からは第2案の「ゆいま~る入居者と町内のグループホーム入居者への支援」を採用したいという説明をいたしたところであります。当日の協議で「1億円を一括補助する方が望ましい」という意見が多く出されましたので、その際、町長に対しては、1億円支援の効果を発揮させるためCNと入居料の最大限の引き下げ交渉を行うよう、このように求められたところでございます。4月24日に「ゆいま~る厚沢部オープン記念式典」に来町した高橋社長と私が話し合いをしながら、1億円を支援する場合に4万円を下げる努力をすることで、これを確認したところであります。5月9日の第6回協議会では、1億円は入居しやすい環境づくりのためであり、4万円引き下がることを説明しましたが、一部議員からグループホームへの支援についても検討すべきとの意見も出されました。新町のグループホーム巴は、滝野の施設と同額で有料老人ホームより低料金で入居するために、既に9名のうち4名が町外から入居の決定をされておりまして、比較的入居しやすい環境であることから、町外者が多いというふうな現象が現時点でも推察されることでありまして、支援の必要はないというふうに判断をしたところであります。 三点目、四点目につきましては、先にお答えしたとおり第6回協議会で「1億円一括支援について」と「所得・資産を考慮しないことについて」は、おおむね御理解をいただいたものであるとこのように思っております。 近年のこの高齢化の進行に、特養が不足のため全国で42万人が入居待ちとの報道があります。また行き場のない年寄りを「漂流老人」と呼んで、大きな社会問題となっている現状であります。運営を始めた「ゆいま~る厚沢部」並びに「グループホーム」等は、本町が人口減少や超高齢化へ向かう中で、安心して最期まで住み続けられるまちづくり及び地域の活性化に大きく貢献していくものと、こういうふうに期待をしておりまして、運営が早期に軌道に乗ることを願っているところでございます。以上であります。」 建設費用としてコミュニティネットに補助するのがダメなら、入居料の引き下げ交渉をするから、入居者支援の名目で1億円をコミュニティネットに補助したい、という答弁です。 入居者への直接補助ではだめなのですか? ...
ゆいまーる厚沢部補助金問題についての議会議事録を読む
上俄虫鹿子舞 天正年間(一五七三〜一五九一)、陸奥国福島から徳兵衛が移住してきた。 その後文化年間(一八〇四〜一八一七)陸奥国福島のある部落の納屋に鹿子を箱に入れて保管していたが、ある時、納屋がさわがしいので見ると三匹の鹿子が箱の上で踊っているのを見た。なにか悪いことが起きそうで、鹿子を川に流してしまったという。 その年から、部落に火事や災難がおこり鹿子のたたりではないかと言われていた。この話を聞いた上俄虫の人たちは鹿子舞を継承して供養したいと鹿子分けを願いはるばる指導にきていただき、教えを受けたのが今の鹿子舞の始まりと言われている。部落では毎月八月七日盆に鹿子の魂入れをおこない、九月十三日鹿子納めの日をするならわしとなっている。 土橋鹿子舞 延宝二年(一六七四)青森県津軽郡南部平内から杉野喜三郎という人が杣夫として土橋に住んだ。この人たちが江差の豊部内の人たちの誘いを受けて鹿子を分けてもらったのが始まりである。 元禄(一六八八〜一七〇四)のころ、檜山奉行所の青山という武士がヤマメ釣りにでかけたところ、豊部内川をさかのぼって笹山のふもとについたとき、近くの丘から鹿のむれがなく声がきこえた。様子をうかがうと、一頭の女鹿を数頭の男鹿がこれを囲みあらそっていた。そのうち、女鹿はススキのかげにかくれてしまった。 男鹿はおどろいてさがしまわっていたが、一頭の若鹿が女鹿をみつけた。そこで、また他の男鹿とあらそいになったが、やがてあらそいをやめて踊りながらみんなで山へ帰っていった。 このありさまを見た青山という武士は、家にかえって人々にこの話をきかせ、また、この様子をお祭りのときの舞にしようと考えた。猿楽、田楽、アイヌのユウカラなどの話を取り入れて舞をつくりあげた。 宝永元年(一七〇四)八月、松前藩主矩広さまの奥さまが子どもを失って悲しみにくれているとき、江差の鹿子舞をまねいてはということで、檜山奉行の蛎崎兼健に相談して、松前城の奥御殿で鹿子舞をおどった。これをみた奥さまはようやく元気になり傘や帯をくださった。こうして、檜山奉行所で鹿子舞を踊ることになった。
厚沢部の鹿子舞由来伝承