古事記によれば、ヤマトタケルノミコトは、三浦半島走水(馳水)付近から船で東京湾を渡り上総付近(渡海面)に上陸し、佐原、香取・鹿島神宮、常陸へと北上したと記され、古東海道があったことが想像できる。その後、日本書紀には「大化改新の詔」(646年)が宣布され、主要街道の駅伝制度が発足している。街道には、当時の里程で30里(約16km)ごとに駅が設けられ、駅馬、伝馬が置かれていた。房総は上総・下総・安房の3国に分かれ、国には中心に国府が置かれ朝廷から国司が派遣されていた。上総国府は現在の惣社付近に、下総国府は現在の市川市に、安房国府は現在の三芳村府中付近にあったと考えられており、国府を繋ぐ道が作られている。資料によれば、房総から平城京まで往路30日、帰路15日程度かかったようである。
その後武蔵国が東海道に属する(771年)
ことになり、古東海道の幹線が、海上からより安全な武蔵国を回るルートに変更された。

これらの古東海道ルートの調査は、近年の市原市・市川市・船橋市の古代道路遺構の調査により、少しずつ姿が現れている

出典:千葉日報社「千葉の道 千年物語(平成14年5月)」