「文治先生歴史ツアー」は、2016年2月28日(日)に開催された地元郷土史家の武田文治氏を講師とした歴史ツアーである。土気NGOとオープンちば!の協力のもと開催された。午前の部では、大椎八幡神社に集合し、大椎城址まで歩き、土塁の跡や見晴らし台などを見学した。午後の部では、あすみが丘プラザに再集合し、LocalWikiに情報をまとめた。子どもから大人まで約15名の参加者があった。
プログラム
10:00 大椎八幡神社に集合文治先生からお話
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文治先生よりレクチャー
大椎城跡まで徒歩で移動キャプションを追加
県教委の石碑、土塁、剣鏡碑、物見台などを見学
大椎八幡神社に帰着
12:00 現地ツアー終了 一度 解散
13:00 あすみが丘プラザ再度集合
会議室でオープンデータというアイデアやLocalWikiの操作の説明&現地調査で集めた情報を記事にする。
16:00 解散</div>
大椎の歴史
原始
先土器時代の遺跡が見つかっている。現在はあすみが丘になっている「文六2番地、弥三郎、後台」にあった。
縄文時代の住居跡などは、文六2番地、弥三郎、後沢、御堂崎にあった。
古代
奈良時代の住居跡などは、文六2番地、弥三郎、後沢、加原野、大椎廃寺にあった。奈良時代中期の住居跡などもあった。
1000年 平忠常が大椎城に拠った。
1126年 千葉常重が大椎から猪鼻に移る。大椎城は支城となる。
中世
1313年 銘武蔵型板碑や宋銭が発見される。
近世
1611年 検地が行われる。
1633年 旗本神谷次重の知行所となる。
河原坂野の争論、桑垣堰の争論などがあった。
1843年 幕領分は鶴牧藩領になる。
近代
大椎村は旗本の神谷氏・曲淵氏と鶴牧藩の支配地になっていた。そのため、鶴牧藩と鶴舞藩に所属することになった。
文治先生による今後の追求課題
1)『図説房総の城郭』78ページには「(大椎城は)しかし、この地はもともと源頼朝に滅ぼされた上総氏の領とするところであり、これを千葉氏がここから興ったというのは史実ではなく伝承の域を出ない。」とある。にもかからず多くの文献に千葉氏が興ったとするのはなぜか?
2)千葉氏は忠常の嫡流ではない。嫡流は上総氏である。上総氏が頼朝に滅ぼされた後、千葉城の常胤を嫡流に書き換えた。確かに頼朝に参陣した時、千葉常胤より上総介広常の軍勢が多かった。上総氏についての理解を深めることが求められる。
3)『図説房総の城郭』78ページには「遺構からみて戦国期のものであることは明らかで、土気城主酒井氏が村田川流域をおさえる支城として築いたと考えられる。城郭本体と城下集落が良好に温存する城跡である。」とある。戦国期の中の城として考え、土気城、板倉砦、向砦との関係を考える。
配布資料
武田文治「今に残る4つの堀、物見台:千葉開府890年に因んで。千葉市発祥の地、大椎を訪ねる。」プリント、2016年2月28日。
参考リンク
(千葉開府890年記念)土気NGO「文治先生歴史ツアー 大椎城」
https://www.facebook.com/events/828200353968434/permalink/850273081761161/
千葉氏まち歩き(4)~LocalWikiを体験しよう!~(IODD2016_LWpre#04)
https://www.facebook.com/events/1745283385694915/?active_tab=posts