この界隈(かいわい)には江戸時代の初期から大名屋敷が置かれていました。安政(あんせい)三年(1856)の絵図にも見られるように、陸奥白河(むつしらかわ)藩阿部家、薩摩(さつま)鹿児島藩島津家、肥前小城(ひぜんおぎ)藩鍋島家、大和郡山(やまとこおりやま)藩柳沢家、日向飫肥(ひゅうがおび)藩伊東家、石見津和野(いわみつわの)藩亀井家の上屋敷(かみやしき)がありました。

 明治五年(1872)、阿部家、島津家、鍋島家の上屋敷を合併して内山下町一丁目(うちやましたちょういっちょうめ)、柳沢家、伊東家、亀井家の上屋敷を合併して内幸町一丁目(うちさいわいちょういっちょうめ)となりました。内山下町、内幸町という町名は、山下御門(ごもん)、幸橋(さいわいばし)御門の内側に位置していたことに由来しています。