この界隈(かいわい)は、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に徳川家康から軍功として関東一円の藍(あい)の買い付けを許されていた紺屋頭土屋五郎右衛門(こんやがしらつちやごろうえもん)が支配していた町でした。そのため、町には五郎右衛門の配下の染物職人が大勢住んでおり、いつしか「紺屋町(こんやちょう)」と呼ばれるようになったのです。 

 江戸を代表する藍染めの浴衣(ゆかた)と手拭(てぬぐい)の大半は、紺屋町一帯の染物屋で染められました。「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」と言われていたほどで、紺屋町の名物が江戸の名物でもありました。つまり、ここが流行の発信地だったわけです。ちなみに、「場違い」という言葉がありますが、これは紺屋町以外の地区で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸の人がそう呼んだことに由来するそうです。