藤沢は海道から外れたことのない街。

源氏縁の白旗神社を地図に描き込んで見る。

 

藤沢の西には足柄の白旗神社。北には山梨の北杜。横浜の戸塚。東には三浦半島の三浦と鎌倉。鎌倉は鶴岡八幡宮の中に白旗神社がある。浦賀水道を渡って房総半島の鋸南、鴨川、市原、千葉。北を目指して、印旛沼、水戸、福島に入って白川、須賀川。岩手の摺沢、岩手町。秋田の大仙。


鎌倉幕府を開いた源氏は北方との交易で富を蓄えたとされている。鎌倉から北を目指す道の要衝に白旗神社が置かれたとしたなら、13世紀、中世の道は、三浦半島から房総半島に渡り、そこから常陸を目指したと想像出来る。藤沢は山と平地と海の際。自然に歩き易い道だったり、船を出すのに適した港でもあり、鎌倉を護る山の外側。鎌倉から都を目指す最初の宿。若しくは都からの使者を足止めすることの出来る最終の宿でもあった。

 

千葉の南部、房総半島の先を上総、武蔵と接するところを下総と呼ぶのは、三浦半島から渡った先がまず上総。道順は下総より上総が都に近い。江戸を基点としない上下の地名が付いている。

 

利根川が大量の水で浸す関東平野の低地は当時、脚を取られる危険な道だったのかもしれない。平野を越えた先の水の付かない地域を常に陸と書いて常陸と呼んだのもそんなことからかと想像をしてみる。
 

小高い山の上に鎮座する藤沢の白旗神社。鶴岡八幡宮と同じように真っ直ぐ南の海を向いている

時代を遡って、古代の道はどうであったのだろう。

藤沢の白旗神社は、寒川神社の摂社。藤沢界隈は寒川神社が領有していたことになる。藤沢と寒川は高座郡で高句麗縁の地。

7世紀、高句麗が朝鮮半島で滅亡して、畿内にいた高句麗人たちは帰る先を失った。ときのヤマト王権に命じられ海路相模国を目指したとされている。高麗山のある大磯から上陸し、相模川上流の寒川にたどり着いた。高句麗が神社を建立したとしたら、寒川神社の歴史は7世紀以降ということになるのか。白旗神社の資料は焼失しているので正確なところは分からない。大磯と寒川、藤沢を結ぶと、相模平野の北のはずれをなぞる古代の道が見えるような気がする。相模川が暴れて水で浸すことのある平地と山地の境目に、神社等重要な建物が建てられ、洪水や津波を避けて残ってきた。この時代も、都と坂東の行き交いの道が藤沢を通っていたのかもしれない。

鎌倉幕府が滅亡した後も、北条氏は現在の青森の領有にこだわり、保ち続けた。北との交易を重視したと考えられ、道は維持されたのではないかと思われる。

江戸時代。
家康は東海道を整備し、藤沢に宿を置いた。江戸と京都を結ぶ道が幹線となり、三浦半島と房総半島は海道から外れることになる。家康は自ら滞在する御殿を藤沢宿に建てている。白旗神社の江戸寄り。現在の藤沢公民館付近が御殿のあった場所だ。近世、藤沢宿は東海道の宿場として、藤沢宿で分岐する鎌倉道、江の島道へ人々を導く要衝で有り続けた。


近代の道も、国道1号線が藤沢を通る。そして、鉄道。国鉄が東海道線の駅を藤沢宿の南側に置いた。江ノ島電鉄、小田急が藤沢駅に乗り入れた。