南柯紀行

  • 著者 大鳥圭介
  • 参考 1998『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』新人物往来社

官軍の人数乙部へ上陸、松前、木古内、大野の三道へ分れ進軍の趣報告ありたれば土方歳三は衝鋒二小隊、伝習隊に小隊を師いて、市の渡口下股へ出張、予は伝習一小隊と額兵隊三小隊を率いて木古内口に出張せんとす。

(中略)

大野二股口へは土方歳三、大川正二郎、衝鋒隊二小隊、伝習隊二小隊を率いて出張せしに、四月十三日官軍先鋒長州、福山、松前、薩州兵隊五六百人襲来り、同地にては巳に胸壁を要地に築立置きたれば、之に拠り防戦す、敵方も新手を入替え襲撃し、味方も二小隊ずつ交番に休息して、防ぎ戦うこと凡そ十六時間にして、翌十四日朝七時に及び、敵引退きて稲倉石に帰れり身方も徹夜の長戦にて頗る疲労したれば、長追を止めて休息せしめたり、此戦前日より始まりて、翌日に続きたれば何れも憤発して防禦し、兵士中にて千発余は発射せし者あり、少きものも三四百発は打ちたるにより、兵士の顔硝煙に触れて、崑崙奴の如くなりたりとぞ、此時身方の死傷七八名、敵方の死傷は詳ならざれども胸壁も無ければ五六十人は必ず有りたらんと察せり。

但し此兵隊中の一小隊は、昨十二月末より箱館にて募りたる生兵なりければ、初めは何れも戦地に出たれば、強弱如何んと疑い居たるに、此防戦の時は非常の奮発にて少しも恐怖の色なく血戦し、剣を附けて胸壁の外に躍り出て、敵二人迄衝き斃し、終に戦死したる者あり、何れも其勇気を驚嘆せり、是に由て之を観れば兵は新故にあらず、其訓練の精粗にあること明なり。

(中略)

二十四日敵軍又二股口に襲来す、其兵は薩州、福山、津軽の勢なり、身方は伝習兵二小隊、同士官隊にて之を防禦し、先頃の如く本日二時頃より夜二時頃に至りき砲声不止、敵軍稲倉石に引揚げたり。

(中略)

矢不来巳に敵の有となる上は、二股の方も援路絶え、加之後より敵を受くる患あるを以て、翌三十日早暁胸壁を棄てて、兵隊皆五稜郭に引揚げたり、於是諸隊皆五稜郭に聚り、東は湯の川、東北は赤川、南は七里浜を限として、兵を分ち防禦を為せり、森、鷲の木の兵も既に五稜郭に還り、来りし故に、茂呂蘭と消息中断し、大に窮迫せり、官軍は有川、大野、大川に滞陣せり。

 


北国戦争概略衝鉾隊之記

  • 著者 今井信郎
  • 参考 1998『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』新人物往来社

ここに於て益々備へを厳にし待つ所に、四月九日、南軍乙部より上陸、一戦江差を抜き、勢砕竹の如く二手に分れて進む。一手は松前沿道、一手は稲倉石間道より五稜郭に進む。時に今井信郎中隊を率ひ峠新道に塁を築きて有りしが、稲倉間道を競ひ進むと聞き、中隊を一ノ渡村に転陣し小隊を二股に進め土人を招集し地理を推問なす所に陸軍奉行土方歳三、仝添役大野右仲、工兵頭吉沢勇四郎等来つて議決し、二股に塁を築き、我中隊を以て成し、猶南軍の虚を衝んと今井信郎森村本営に趣く。

十三日暁、天狗岩に備へし守兵、南軍襲来の旨を報ず。ここに於て二股の嶮に築きし数十ケ所胸壁に我中隊頭取(友部栄之助 川井卓郎)、伝習歩兵小隊、砲兵、工兵合せて百三十人伏して敵の近づくを待つ。南軍天狗岩の守兵を破り勝に乗じ競ひ進む。我兵益々怯を示して動かず。其間十間に近づく時、銃先を揃へて狙撃し、真先に進みたる騎兵を撃落す。敵兵驚きて崩れ走るを乱射し敢て追はず。敵また返り来つて発放す。我兵また応じて狙撃し、夜半まで勝敗決せず。

友野栄之助半小隊を率ひ渓を渉り峻山を攀ぢ敵背に出、未だ及ばざるに南軍敗れ走る。我兵追撃し、討取、分捕尤も多し。

(中略)

二股口にては大川正次郎(伝習歩兵隊頭並)中隊を率い来り援け合せて六小隊を分け、小隊を河汲沢に備へ、二股右上山、正面とに伝習隊、左山上には川合卓郎小隊を以て守る。川傍に友野栄之助小隊を以て守る。

二十三日四時頃より、南軍襲ひ来つて戦ふ。滝川充太郎(伝習士官隊頭並)中隊を率ひ援け来つて南軍の散漫するを見、中隊の士尽く剣を奮つて斬入り追崩す。敵の別隊右手山上より猛撃に射撃す。滝川兵士を叱咤し奮戦、死傷多くまた元の山に追ひ返さる。

我兵伝習隊と力を協せ十字砲火中に敵を射斃(字が違う)す。去れども敵兵死骸を楯に取り激戦撓まず、一歩も退かず二十五日夜半まで血戦す。我兵の益々盛なるを見、次第に退き、二十六日暁、尽く退き去る。

天狗岩左右の山に壁を築きて備ふ。森村にては二股の戦烈しきを聞き、海岸を見国隊に委し、二十六日第五時過ぎ古谷作左衛門、永井蠖伸斎、天野新太郎三小隊を率ひ大野村に出張し、即日、天野中隊を率ひ矢不来に進みて陸軍奉行大鳥圭介を援けて天神の森の塁を守る。

二十七日、今井信郎、浅井陽中隊を率ひ大野村に来りて本隊に合し二股に向ふ。


蝦夷之夢

  • 著者 今井信郎
  • 参考 1996『箱館戦争史料集』新人物往来社

二股口には土方歳三、吉沢勇四郎、今井信郎衝鋒隊(二小隊)、伝習隊(一小隊)、中根豊三乙兵隊を率い嶮に拠り壁を十六ケ所に築き、また天狗岩に胸壁四ケを築きて敵の寄するを待つに、十日午後三時頃、敵大挙(薩、長、福、松前)進み来りて天狗岩の壁に迫りおおいに戦う。吾兵且つ戦い、且つ退き敵を嶮にいざない、かねて築きし十六ケ所の壁より十字に射撃す。敵兵また死憤の勇を発し死人を楯に取りて悪戦す。

夜に至りて大雨滝のごとし。彼は兵を入れ替え戦う。我は三小隊に十六ケ所を守り、代る可き兵なし。急に彼を破らざれば支うること能わざるを謀り、決死の兵を選び衝鋒隊半小隊(頭取友野栄之助)夜十時頃、沢を渉り山を攀じ、彼の横背に出でて暗中より喇叭を吹きかつ乱射す。敵兵不意を撃れ驚潰乱走し「テンツ」および器械を捨て去る若干(此の時東方巳に白む)。

(中略)

また、二股口にては衝鋒隊、伝習隊合せて纔かに百三十人にて、十二日第三時より今朝第七時まで、およそ拾七時の烈闘に我費すところの弾薬ほとんど三万五千余発にして、ますます精神静め、