祓井戸

祓井戸の浜に浅い井戸がある。大昔、神功皇后が三韓遠征からの帰りにここに立ち寄り、この井戸の水でお祓いをした。そのお祓い井戸が「祓井戸」になったと言う。

また、観音さんの由来記にも記述がある。

「祓井戸観音由来記」に、祓井戸は観音の霊地で、熊野権現はこの地に現れた金の熊に乗って三熊野に行かれた。

また、天智天皇の頃役行者がこの地で加持の後、錫杖もて地上に井の形を掘ると「伊勢神宮一万度のお祓い・井元なる木の枝にかかりたり。よりて祓井戸と号す」と。さらに清和天皇の御代の天長五年、弘法大師が「二十七日間御参籠あり、真言陀羅尼を讚踊なされし処、一人の童子忽然と現れ、黙礼して飛び去るあり」で「尊き霊場」であったとある。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

山口八幡社

大昔のこと、都の貴人が日置(西牟婁郡)で、うつろ舟に乗せられてつき流され、尾ノ崎の岩礁を乗り越えて騎士に着いた。それを祓井戸の一人右衛門がお助けして祓八戸で祀った。乗り越えた岩礁をノリコエと言うのは、そこから来たのである。それから野島に仮家を建てて祀った。ついで宮を建てたが、後に上野の梅田にお移しした。ところが波の音が嫌いだと言われたので印南町畑野へ移し祀った。このとき貴人は「波の音聞かじがための山の奥声色変えて松風の音」と詠まれたと言う。しかし畑野は下肥が臭いと仰せられたので、今の山口へ祀った。

山口においでた後、この貴人に使いが来て罪一等が許され都へ迎えられた。その時貴人は自分の姿を木に刻んで残し京へ帰ったと。野島で最初に仮家を建てて祀った家が仮家姓、宮のあった家が宮本姓を名乗り、この一統が行かないと祭礼が出来ないことになっていた。祭の神輿の供先は仮家がする。神輿が出発する時 ”男山 男山 栄える御代は ひさかたの ひさかたの おもかげ見れば神祀る 神祀る頃は何時かなるらむ 三五夜中の月は今宵なるらむ” と唄う。祭礼は旧暦八月十五日だった

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

塩  屋

この浜で塩をたいたので、そこから来たらしい。                               里伝によれば大同年間に魚屋権兵衛と言うものが製塩を始め、その発展を祈って里人を説き王子社を建てたと言う。 塩業については岩清水文書の延久四年の頃に見えるのが初めだが、それ以前より行われていた。          権兵衛以後、業開けて字名を生じたと。彼はその功により塩屋連の姓を賜ったと言う。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

楠 井 戸

清姫の腰掛石の近く道路を隔てた反対側にある池は、昔、楠正成がここを通りかかり水を飲んだ井戸だと言う。   今は防火井戸として拡大している。楠井の地名はここから出たと言われる。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

吉田・おくそ・藤井

この辺りは一般に土地が低くて葦が生えていた。                                    おくそノ谷まで海が入り込んでいて海士がいて舟九隻を繋いでいたのでおくそノ谷と言い、葦の生えた田で吉田になった。藤井は土地が高く藤が川渕に生えていたので藤井というたそうな。                     津井切付近は地下に朽ち木が多く埋まっていて井戸を掘れなかったと言う。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

日高別院は後奈良帝の天文九年(1540)本願寺坊舎とし美浜町吉原に建てられた。               この坊舎から東方を望むと一面の菜種畑で花期には花の園と言うばかりであった。                 それで薗と名付けられたと言う。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

枠  橋

日ノ出町から新浜に行くには枠橋を渡りついで大川端を渡る。                          この枠橋は昔はなく大変不便だったので川の上に丸太棒を枠に組んで橋杭の代わりとし、その枠から枠へ板を渡して浮き桟橋のようなものを作った。それも渡るのは一人づつであった。                       後年、箸が架設されたが名はそのまま残った。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

七  免

薗浦に「免」の付く地名が七つあった。その昔、土地の悪いところは免税されたと言う。              浄国寺の裏に津井ノ浦と言うのがある。これが堂の裏で堂免。                          また市役所(現公民館)東側の白見田と呼ぶところが元白免、その西の方に鳥目と言うところが鳥免、それに島に公役免と言う字名が一か所など。                                       七免のうち昔のままで呼んでいるのが中町の茶免だけ。茶免の辺りは土地が悪くて稲作が出来ないので茶を作った。だから茶免と呼んだと言う説と、栗本新兵衛が庄屋をしていた時代に上役人とよく茶を飲みながら話し合い税を免じられたからその名も茶新と愛称され土地も茶免となったという説がある。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

釜 井 戸

薗の番地の始めは北釜井戸(市立体育館の西北、国道西側)で、そこに一~十二番まで。最終は九八ハ番に至る。   この釜井戸は一面に水が湧き米、麦が作れないので田の底に一面に竹を敷き詰め、その上を床土で固め、さらに上土を入れて米作が出来るようにした。                                    そして湧水を一か所に寄せたため井戸のようになったので、その名がつけられたそうだ。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

天 田 橋

昔、殿様が紀南巡遊の途次、この日高川渡船場に差し掛かった時、生憎の増水で川止めになっていた。        ところがそこは殿様、無理に舟を出せとせがむ。従者たちは黙してイライラするばかり。              そこで殿様は、渡れるよう手配せよとの矢文を対岸へ放った。対岸に待機する役人は、これを受けて慌てふためき殿様の命令に背くわけにはいかぬと直ちに北塩屋の天田の漁民に言い渡し一隻の網舟に六人の舟方を乗り込ませ五丁櫓を仕立て濁流渦巻く中を命がけでお渡しした。                                その時殿様から、以後ここの渡し守は天田の人々にさせるとお言葉があり、日高川の渡しが天田の渡しに名称が変わった。天田地区に役人が出待ちしたところを今も出待ちというとか。またその時の矢文が塩屋の某寺に保存されていると言う。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

十本松・金兵衛・元町・出店

十本松は十本の松が生えていたのでそう言った。今は天田橋の下手を指して言うが、もっと北である。        金兵衛は今の小橋から西川口の方への呼称で、樽屋こと上田金兵衛がここから大阪へ樽を送って繁盛したので、その名がついた。樽屋は昭和十年頃倒産した。                                   元町と言い出したのは昭和二十六年からで、以前は岬通と呼んだ。                       また、日高川の水運が盛んだったころ、その仕事に従事する人たち相手の店が出されていた処が出店である。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

財  部

大昔、日高川はこの近くを流れていた。天武天皇の大宝三年、朝廷から日高へ銀を奉れと言ってきたので、ここで銀を吹き分けて奉った。宝のあるところ、出来るところと言う意味で地名になったと言う。「宝」とも書いた。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

おけちさん

財部の、今の青果市場のある所に気鎮神社があった。住民はおけちさんと呼んだ。                 気鎮と何故言ったかと言うと、あそこは旧熊野街道沿いで、熊野詣でに往来する高貴な人が病気などになった時、 気を鎮めるために建てたお宮だからと言う。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

御所の瀬

小松原から藤井への道に万楽寺がある。その南、子字中島と天神垣内の境に御所ノ瀬橋と言う石橋がある。        この辺が熊野古道で、熊野詣での後鳥羽院が泊まられたので御所と言う名がついたと言う。             御幸記に、この御所は水練に便利な深い淵に臨んで建っていたと言うから、そのころ日高川はこの辺を流れていたのだろう。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

子安さん

湯川神社を子安さんと呼んでいる。                                      安産の神として近郊だけでなく米国に嫁している女人も帯かけ、安産祈祷に来る。                 これは亀山城主湯川直春が妹(御坊市史では娘)の安産を祈って祀った女神だからである。            昔は、下富安と小松原が氏子で、祭礼は富安王子社でしたが、それには小松原衆が行かないと出来んことになっていた。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

富  安

古くは冨安と書いた。亀山城主湯川直春の妻冨がここに産室を建て小松原の子安神社に祈って安産したので、以来富安と言うと。                                                 入山城主青井春高に子がなかった。そこで妻冨の前は、その東北二十四、五町の足切地蔵尊へ百ケ日参詣、祈願したところ満願の夜、白髪の翁が現れ「その方に一子を授くべし」と白玉が口中に入る夢を見て妊娠。          寛元二年正月元旦、男児を出産した。以来、百石領地付の青井家の祈願所となり、この里を冨安村と言う。     のちに冨安と書くようになったと言う。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

城 ヶ 峯

湯川氏の砦址と言う。湯川氏が落城して馬に乗って逃げ落ちた所を馬越えと呼んでいる。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

乗  町

福田委員の東の方、三福さんの辺りを乗町と呼んでいる。                                     この辺りは昔、亀山城主の家来たちが乗馬訓練した馬場だったんじゃなかろうか。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

足切さん

富安に留置と言うところがあります。                                              昔、弘法大師が熊野にお詣りに行く途中、ここに立ち寄られました。                          すると讃岐の屏風浦から大師がおつくりになった地蔵菩薩が後を追って現れ「私を熊野に移しなさい」とお告げになられました。大師は「一緒にここにとどまって、この村の人々をお助け下さい」とお願いしましたが、お地蔵さまは聞き入れてくださいませんでした。それでやむなくお地蔵様の爪先を切ってお止めしました。           その後、だんだんとこのお地蔵さまにお詣りする人が増え、夢のお告げがあり 西向きにお寺を建て西向山地蔵院万福寺と呼んでお地蔵様をお祀りしました。 今では足のけがや病を治してくれる足切さんと呼ばれ慕われています。

ーー湯川むかしばなしよりーー