境内の塩屋王子神社の説明碑文

塩屋の歴史は古く、天田古墳群、中村古墳群、東大人遺跡、尾ノ崎遺跡跡など旧石器時代から中世にかけての遺跡があります。古くから製塩が行われていたようで多くの製塩土器が出土しており、平城京跡から出土した木簡に日高地方から潮を送ったという記録も発見されています。また、「続日本紀」の大宝三年(703年)五月条には日高郡の調として銀を献上することを命じたことが書かれています。当時、我が国の銀を採掘できる場所は対馬以外になく、航海技術など相当進んだ諸々の技術者が日高地方に住んでいたことと思われます。

伝説では権現磯に熊野権現が上陸し切目、神倉、飛鳥、速玉の各神社を経て熊野大社に遷座されたとの言い伝えもあり、当時塩屋には有力な豪族が住み、その氏神が塩屋王子ではなかったかと推察します。

十世紀以降、熊野信仰が興隆してくると、在地の諸社を王子社に仕立てていきました。

塩屋王子(現 塩屋王子神社)は熊野九十九王子の中で特に古く格式の高いものとされ、最初にできた七王子(藤白、塩屋、切目、磐代、滝尻、近露、発心門の七社)の中の一社でした。

熊野御幸路においては、山また山を越え塩屋に入り田辺に至るまで海岸に沿える道は甚だ楽しい眺めであったようで、天仁二年(1109年)の「中宮記」に「塩屋王子に至って奉幣、上野坂の上において祓、次昼養巳刻、次に伊南里を過ぐ、次切部水辺に至って祓、次王子社に参って奉幣、世に分陪支王子と号す、日入るの間切部庄下人小屋に宿す、今日或いは海浜を行き、或いは野径を歴、眺望極まり無く遊興多端也」とあり建仁元年(1201年)の『後鳥羽院熊野御幸記』には、「山を越して塩屋王子に参る、このあたり又勝地祓あり、次に昼宿に入りて小食す」とあります。正治元年(1200年)後鳥羽上皇三度目の熊野御幸の時、切目にて「海辺晩望」の題で「漁火の光にかはる煙かな、灘の塩屋の夕暮れの空」と藤原家隆卿が詠んでいます。