1585年ごろ、秀吉の紀州攻めにより壊滅した土豪たちの水軍は漁業、廻船業に転向した。                  これが大渡海船団となり菱垣廻船、樽廻船の日高・比井・富田等の廻船に発展した。                1694年ごろ、日高廻船の中心的存在となる薗家二代目喜太夫が初めて廻船業に従事した。            

初代は岸和田城下の武士の三男だったが1644~1647年、北塩屋に移住し、二代目喜太夫の時、初めて和泉屋と称して北塩屋浦にて廻船業に従事し、三代目喜太夫の時、薗浦に進出。1840年代に廻船業を廃業。          

廻船業の最盛期には日高・比井で60数隻もの廻船を有し、酒造地である灘五郷(西宮)で酒(当時は樽酒であった)を積み江戸まで海上運送した。しかし、文政7年(1824)和泉屋の廻船が伊豆で遭難、死者12名。              嘉永2年(1849)和泉屋庄右衛門の廻船が駿河沖で漂流、米国の捕鯨船に救助される。乗組員12名は2グループに分かれ1グループは香港⇒上海⇒長崎⇒和歌山。他のグループはカムチャッカ滞在⇒下田⇒和歌山に帰還。

樽廻船は酒樽を船底に積み、その上に雑貨を積んだ。                                  中には1300石を超える大型廻船があった。                                  

菱垣廻船は主に雑貨等を扱うため、積み荷に手間がかかり船の安定性も悪かった。                      それゆえ近世後期に入ると菱垣廻船の減少が目立った。                                菱垣廻船復興のため幕府は樽廻船を菱垣廻船に転換させた。                                その結果、樽廻船の撤退に伴い西宮酒造業者が自ら樽廻船業に着手したため、効率の悪い菱垣廻船は徐々に衰退していった。

因みに日本酒が瓶詰になったのは明治の世になってからです。                              神戸港開港に伴い、外国人が持ち込んだ瓶ビールを見てヒントを得、酒造業者が日本酒を瓶詰にしたそうです。

「農山漁村の正業環境と祭祀習俗、他界観」より抜粋