歴 史
701~718 「養老律令」の中でも堅魚が重要貢納品とされ志摩、駿河、伊豆、相模、紀伊、土佐、豊後 から堅 魚を献上した。
1198 日高郡塩屋村で藁製の地引網が発明された後、房総にも伝わった。
御坊地区の漁業の拠点は北塩屋浦であった。北塩屋の地引網は古い伝統を持っていた。
円満寺の祖、岡本次左衛門(1527没、室町末期)が考案した地引網で漁獲高が激増した。
1573頃 土佐の播磨屋亀蔵は紀州の漂流民から鰹節の製法を伝授され亀蔵節と名付けた。
1585 秀吉の紀州征伐により印南要害城、印南原城、滝法寺、印南王子、西蓮寺、八千貫城が焼かれた。
このとき、壊滅した土豪たちの水軍は漁業・廻船業に転向した。
これが大渡海船団となり菱垣廻船、樽廻船の日高比井、富田等の廻船に発展した。
1623 印南森家の祖、森弥兵衛が枕崎に鰹節の製法を伝えた。
印南の鰹節製造技術は和歌山藩の堅い掟により他藩に伝授することが許されなかった。
「御坊市史」より抜粋