熊野の蛙

昔、熊野の野井戸に大きな蛙が一匹住んでいた。                               ある日、その蛙は井戸の外で人間が話しているのを聞いた。                          その話と言うのは「熊野て、つまらんところや。野口に行ってみよ。そりゃ広いし、大きな川もあるところや」それを聞いた蛙は「そんなええとこあんのなら、いっぺ、見るだけでもええから行ってみよ」と汗ぐっしょりになりながら鳶山へ登った。いよいよてっぺんまで登って、はるか下界を眺めたら、これはいかに、竜宮か花の楽園かと楽しんできたのに、そんな野口はどこへやろう。見えるのは今まで長く住んだ熊野と全く同じ。自分の目玉がどっちについているかを知らずにつまらんことをしたと、すごすごともと来た道を熊野に帰ったと言う話。  ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

蛇  嫁

昔々のこと、別嬪な女郎衆が腹痛ちゅうて診せに来てんと。入院して10日ほど世話になったらしいわら。そうこうするうち、その医者と仲ようなって一緒に住むうちお腹大きなってん。産むようになってその女郎衆ー嫁はんが旦那の医者に「七日ほどわしの部屋に入らんといて」て言うんやと。よしよして言うたけど不思議なこと言うと思って四五日してそっと覗いて見てんと。ほいたら巳さんと赤子があんね。ビックリしてね。嫁の方も見られたことを知って「私はもうここに居れん。あんたに姿見やれたもん。そいでその子を育てておくれ。私の目玉を一つ抜いておくさか、お乳欲しがって泣いたらこの目玉舐めさせておくれ」言うて以前の住みか(池)へ行ってしもてんと。

医者は子供が夜泣きしたら、その目玉を舐めさせたのでよう寝てん。ところがどうしたんか失うて探しても見当たらんね。弱ってある夜母親のいる池に行き「これこれで目玉を失い子供が泣いて困る」て話したら「私はこの目玉をやると盲になるけど仕方がない。これをあげるから大事にしてよ」と言うて、その父親に渡したて言う。  ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

狼の恩返し

昔々、名田の壁川のところはがしゃんぼだってんと。                             そこをね、塩屋の人が祓井戸の好きな女の元へ毎晩通っててん。ある晩女のところに行こうと思って、そこへ来たら道に大きな狼が座っててんね。そこをよけて左側を通ろうと思ったら狼も左側に来るし、右側を通り抜けようとしたら狼も右側に来るし、大きな口を開けてバア、バアと言うし怖かった。ところが口開けるたんびに痛そうにすんね。そいで何か口の中に引っかかたある物あるんかと思うて、大きな口開けた時、口の中を覗いて見たら喉に大きな骨立ったんねん。ほいで、今度口明けた時、手を突っ込んでそれを取ってやったら山へ入って行ってんと。                                      ところが朝早く塩屋に変える道、壁川まで来ると、狼が待っていて塩屋の手前までついてくる。晩も祓井戸の手前までで送ってくれるんやと。ある晩のこと、壁川まで来るといつものように狼が座っているんやが、うなり声を出してにぎにぎしく騒ぐんや。そいて着物の端をくわえて引っ張っていこうとする。「離せ」と言うて離させてもまた別のところをくわえるんや。仕方がないんでついていくことにした。                           洞穴のある所まで行き、その穴に引っ張り込まれてん。狼はと言うと洞穴の入り口に門番のように座っている。ほいたら大きな音してん。見ると夜目にも鼻の高い天狗が飛ぶように駆けて海へ降りてんと。ちょうど天狗の潮掛けの晩で、えらい目に合うところだったんよね。男は「ありがとう。命を助けてもらった。もう明日から来ないから迎えに来んといてよ」と狼に言うてんと。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

高城山の地蔵祠

楠井の高城山は、戦国の昔、亀山城主湯川氏の武将湊上野の居城だったが、地蔵祠は城址の下方にあった。江戸時代から上野・楠井・津井各村や印南浦の漁師は漁獲を司る地蔵と信じ、豊漁には舟が入港すると獲った魚の中で一番大きなのをもって三キロもの山坂を登って詣る。今もこの風習がある。                        不漁に見舞われるとこっそり山上に登り地蔵像を盗み出し、その浦の正面に安置して浦なおしという祈願をしたり、祠の向きを変えたりした。太平洋戦後、下楠井の浜辺(赤坂)にお遷ししている。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

森岡の庚申像

森岡に祀っていた庚申さんは、よう言う事を聞いてくれた。雨降らなんだらこの庚申さんを拝んだら降った。昔、この庚申像を盗んだ人があって、日高町の鹿ヶ瀬峠まで逃げたけど、ここで足が動かんようになったんで放って逃げたらしい。その晩、庄屋さんの夢に庚申さんが出て来て、こういう処にいるから迎えに来いとお告げがあった。庄屋さんがあくる朝迎えに行ったら田の畔に置かれていたんで、負うてきて元通り祀ったんやそうな。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

御所の芝

塩屋王子神社にある。                                           鎌倉時代、後鳥羽天皇が熊野詣での時宿泊された処と伝え、南北朝の頃、護良親王が十津川落ちに一泊されたと言う。このとき、南谷の弓倉理太夫が大変お世話したので、喜ばれて持っていた扇子を半分与えられたと伝える。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

五本骨の扇子

後鳥羽上皇が熊野詣での時のこと、日高川が増水して渡し舟が通えなかった。そこで上皇は従者に命じて矢文を川向こうの円満寺苑に放った。それを聞いた高野家先祖は、これは放っておけぬと、早速塩屋浦の網舟で十五人の若者に命じて日高川を渡り上皇をお迎えした。上皇は喜ばれてお持ちの扇子を半分にちぎられて記念に下された。以後、円満寺の紋所は御本骨の扇になったとか。  ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

金の神輿と雨乞いの壺

熊野権現社に金の神輿を埋めていると言う。その場所は「朝日さし夕日輝くその下に・・・」と言う。また、朱の樽七個、白玉二光、鏡一個を所持していたが、玉は豊臣秀吉南征の時隠したのを、明治の中頃、近くの百姓が掘り出して持っていたが、当時の官人が伝え聞いて持ち去ったままだと言う。                また、雨乞いの壺と言うのがあって、雨乞いの時、この壺に水を満たし松明を灯して山で雨乞いをしたのだろうと言う。この社の祭神は疱瘡の神で、徳川吉宗が疱瘡にかかった時、この社に祈願して全快したので、吉宗は御礼にと本殿を寄進したと伝える。   ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

蟹  塚

野口の金岩から小路を三、四十町(一町は約100m)山手を登ると小川がある。そのほとりに「かに」と書いた塚石がある。蟹塚である。                                              昔、この村の庄屋が一人の娘と住んでいた。父娘とも慈愛深く里人の尊敬を受けていた。ある日、娘は用事で行く道で蟹を数多くとらえた青年に出会った。娘は青年に蟹を逃してくれるように頼んだ。青年は「今日一日かかって捕ったんだ、持ち帰って食べるんだ」と言う。娘は、その代わり良いお魚を差し上げるからと色々頼み、青年を納得させて蟹をもらい受け全部小川に放してやった。その後のある日、父の庄屋が山道を通っていると一匹の大蛇が蛙を飲もうとしていた。庄屋は「蛙を助けてやってくれ」と懇願した。「助けてくれればお前の好きなものは何でもやる」とも言った。すると蛇は蛙を吐き出して山へ隠れてしまった。庄屋は安心して帰った。                                       その夜のこと、近辺で見かけたこともない美青年が突然庄屋の家に現れた。断りもなく家に入って来て娘を引っ張り出そうとするのである。庄屋も娘の必死に抵抗した。やがて庄屋は昼間のことを思い出して唖然とした。        「待ってくれ、十日待ってくれ、きっと娘を渡す」と言うとかき消す如く青年が消えた。庄屋は恐れおののいている娘に「決して心配することはない、父に任せろ」と言った。翌朝、庄屋は村中の大工を呼び集め、頑丈な四坪ほどの家を建てにかかった。家は10日目に完成し庄屋は娘をこの家に入れた。次の夜、例の青年が来た。何処も入り口らしいもののないこの建物を見るや、青年は忽ち一匹の蛇体となり猛然と囲いの壁板にかみつき始めた。中の娘は身も心も縮む思いである。音は次第に大きくなり、さしも厳重な囲いも毀れキラキラ光る二つの目、火焔の舌が中から見えてきた。娘は悲鳴を上げ気を失って倒れた。その時である、大蛇は大きなうなり声を立て始め狂い回り始めたのである。大蛇の体に無数の蟹が取り付き、いずれも必死にかみついているのである。小一時間も経つと大蛇はとうとう息絶えたようだった。気が付いた娘も父の庄屋も涙をとめどなく流していた。 ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

新兵衛社

藤田町出島の二重堤防に囲まれたあたりを新田と呼び神明社と言う祠がある。                   神明社は新兵衛社が訛ったものだと言う言う土地の人もいる。                             新兵衛は有田郡垣倉、佐直武佐衛門の三男に生まれ、長じて木材や海運業を営み豪商となった。天保八年の大水害で荒らされた里人を憐れんで、巨費を投じて日高川沿岸の埋め立て工事を起こし一町三反余という新田を作り里人を救ったと言う。                                        この功績に感じた人々が新兵衛亡き後、新兵衛社を建立した。しかしその後、度々の水害でご神体も流れたので、伊勢参りの盛んだったころ皇大神宮を勧請して祀ったと言う。  ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

津波に流されてきた地蔵

古い爺さんの話や、嘉永七年は安政元年寅年。その年の六月の七日か八日に、ちょっと地震があった。十月二十七日に少し大きな地震があって、その後井戸水がのうなったり、満潮時なのに王子川の水が空になったりしたので、これはただ事でないと皆恐れて山へ避難したのは十一月一日だった。十一月三日、川口で水が渦を巻いているという知らせに漁師が見に行くと、このしろの大群だったので、山を下りて夕方網を引いたら大漁だった。

翌四日、大地震に次いで大津波が来た。この朝はもう心配なかろうと男も女も山を下りて女は家事、男は出漁の用意をしてた。そこへ津波が来た。第一波は塩屋王子神社の鳥居まで、第二波はその石段の七段まで、第三波は石段の十二段まで上がった。

塩屋は部落と裏山の間が低い沼地になっている。そこで板をたたいて薬師堂まで逃げよと叫び、このしろも網も放って逃げた。薬師堂の中はもちろん、庭先の百日紅の大木も人で鈴なりであった。そこで人々は二波、三波を避けた。 三波は手洗い石を堂の裏側の畑三畝越えて転がす勢いであった。しかし薬師堂へ避難した人々はみな助かった。

このとき、津波に乗って地蔵さんが転げてきた。初めは単なる石ころと思って放っていたが、医師の表に何か刻んでいるので、片山善右衛門とチエ夫婦がモッコで担って川へ運び、藁たわしで洗うと仏の姿が現れた。        そこで志賀(日高町)の誕生院で祈祷してもらったら、私は四国から流れてきた地蔵菩薩である。もう十日もせんうちに四国からもらいに来るだろうが私は来とうて来たんじゃから手放さないでくれ。地蔵は死に日も産日も嫌うから私を地蔵権現菩薩と神のように祀ってくれ、と言われたので祀ることにした。               祀って七日目に四国から探しに来て探し当て、譲ってくれと言う。いや、地蔵さんは好きで来たんじゃから譲れん、で争ったが、両方立ち合いでもう一度誕生院で祈祷することになった。 ところがやっぱり地蔵は前と同じことを言われるので、先方も納得し、仕方がないから私らはこの地蔵さんのひな型を作って祀ると言って四国へ帰った。                                  この地蔵さんは「私はあらゆる病気を一通り治す。寝たきり老人は安楽死させてやるし、もし盗難に会ったら私を左縄で三巻きして縛って祈れ、失せモノを教えてやる」とおっしゃったので、そんな時地蔵さんを縛り「何月何日何を盗られた。在り場所を教えてください、教えてくださるまでこの縄解かん」と言うと、必ず教えてくれたのに、地蔵さんが居たいと言や仕方がない、と四国の人が残念そうに言ったと言う。  ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

小夜姫物語

亀山城主湯川直春の娘、小夜姫(一説にかよ姫)は手取城(日高川町和佐)主、玉置春和に嫁いでいた。 天正十三年、羽柴秀吉の軍が来攻したので、直春は春和に使者を送って、ともに結んで秀吉と戦おうと申し入れた。春和は断った。怒った直春は春和を討とうとしたが、武将も肉親の情に勝てず、娘小夜に手紙を送って、離縁して帰るよう勧めた。                                              やがて娘から返事が来た。それには父上の御厚情は本当にありがたいが、私はいったん嫁いだからには春和の妻です。たといこのたびの戦で玉置家が滅ぼされようと夫に殉じるのが妻の道です。また私がそうすることによって、末代まで父上の名を辱めないで済みます、とあった。                              直春はわが子ながらも道理をわきまえた天晴れな覚悟に感じ入ったと言う。

ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

二・八月の遭難

大正八・九年ごろの三月であったか九月であったか、塩屋村の漁船団が釣りに出てカツオ島沖で突然、大時化に見舞われ多数の死人を出したことがあった。                                     サバ漁は夜の仕事である。事故があって後、漁師たちが沖釣りに出ると、船の周囲を白衣を着た亡者が、いつ現れるともなく浮き沈みして、船べりを取り巻き「勺をくれ、水をくれ」と消え入るような寂しい声で呼びかけてくる。  これは先年水死した漁師たちの亡霊の仕業で、海中で溺死したため末期の水を求めて訴えてくるのである。そんな亡者にうっかり同情して勺を与えでもしようものなら、大勢の亡者がせっせと潮を舟に注いで忽ち船を水漬けにして漁師たちをあの世に道連れにするのである。それで熟練した漁師たちは、あらかじめ底を抜いた竹勺を用意しておき、亡者が現れて「勺くれ、水くれ」と言うた時、それを海に投げてやる。すると亡者たちは夜通し底抜けの勺で潮水を汲み続け舟に注ぐが、やがて空が白み始めると消え去っていくと言う。 三月、九月は旧暦で二月、八月に当たり二八月と言い、海が荒れることが多いので漁師仲間に恐れられた。  ーー語りつぐ和歌山の民話よりーー

さるとり祭と金のみこし

熊野神社祭は「さるとり祭」と昔から言い伝えられている。                           むかしは 日高郡で一番大きな祭りだった。                                  このお宮に伝わる「延記録書」(1775)に詳しく書かれている。                       毎年 霜月(11月)のさるとりの日に、遠く離れた田辺市芳養の牛の鼻へお渡りをしていた。 その行列はたいそう立派なもので神主さんだけでも一人や二人ではなく七十五人も馬に乗って、ご幣二本、鉾七十五本を立てて それに金の神輿を担ぎながら日高郡中のお百姓さんがお供をして、お詣りをしたともいわれています。 それはそれは大変立派だったそうです。                                   お渡りの間中 その道筋の家々では、ご飯を炊いたりして煙を出してはいけなかったそうです。 また 行列の鉾につけた天狗のお面が海の方を向くと「魚が獲れなくなる」と言われていたので漁師の人々はたいそう恐れていた。                                              それにまた 行列の馬が鳴くとそこの土地に忽ちよくないことが起きると言うので、人々は道に塩をまいて清めたり その場所や道の掃除などをしたりした、そして道筋の人々は雨戸をしっかり閉めて家の中で息をひそめて無事に行列が通り過ぎるのを祈ったそうです。                                     しかし 神様のお徳によって そのような不幸な出来事は一度もなかったそうです。 このお祭りは明治四十年(1908)ごろから川辺町の大山社への出祭りも取りやめになり 近くのお旅所へお渡りするだけになってしまった。 今では祭りの形もすっかり変わってしまって名物の馬駆けや四つ太鼓も出ない年もあるそうです。                                               ところで あの金の神輿は熊野神社の森に埋めてあるとも言い伝えられていますが、その場所は「朝日さし 夕日輝くその下に」と言われています。金の神輿と一緒に朱の樽七個、白玉二光、鏡なども埋められたそうです。     でも 明治の中頃 近くの人が掘り当てたと言われていますが 今はどこにあるのかわかりません。 それから ここの神様は「疱瘡」の神様ともいわれています。徳川吉宗が疱瘡にかかった時 この神様にお願いして病気を治してもらったと言われています。 そのお礼に本殿を建てたともいわれています。 それ以来、熊野神社は疱瘡の神様としても有名なのです。

ーー野口むかしばなしよりーー

渋い楊梅

名田村野島の街道に沿って一株の楊梅樹がある。実は生ることは生るけれども、どうも味が渋い。これは昔弘法大師がここを通られた時、里人に所望されたのを里人が意地悪く応じなかった報いだと言う。

---南紀土俗資料よりーーー

留 木

湯川村富安に留置と呼ぶところがある。伝えて言う、弘法大師熊野詣での途次此処に滞留されたが、時しも讃州屏風浦から御作の地蔵菩薩像が後を慕うて影向あり、「我を熊野に返せ」とのお告げ。大師は里のために「同じくはここに留まりまして賤しき者どもを救い給え」と請われたが、なかなかに容れられない。やむなく尊像の御足を(両足ともつま先を)切って御留め申された。留置の名はこれから起こったのだと言う。  ーーー南紀土俗資料よりーーー            

今宮社の前の石

藤田村藤井の今宮社(土生八幡社へ合祀)前に大きな石があった。ある時この側に雷が落ちて乱暴をしたので、社当の祭神がこれを捕え「この石が腐って無くなるまではこの里に落ちない」と誓わせて放免された。それから当地へは落雷のあったことがないと。これと同様のことが由良村阿戸の国主神社、東内原村荊木の若宮神社、野口村の春日神社(いずれも他社へ合祀)においても伝えられている。  ---南紀土俗資料よりーーー

十三塚

名田村野島の祓井戸の畑の中に十三塚と言って五輪の塔を十三基、一基ごとに二三十間位の間隔を置いて建っている。昔、熊野詣での盛んな頃、出羽国羽黒山の山伏がここで阿波国の海賊に殺され金品を強奪されたが、その霊が祟るので里人がこの塚を築いて厚くこれを葬ったのだと言う。またこの近所に海賊塚と言うものもあったと言うが今は判然としない。これは里人が山伏のために敵を報じてやろうとて海賊を討滅しその屍を一か所に葬ったものだとのこと、今もこの地の海上、阿波の鍬八丁の方向で時々陰火の燃えるのは海賊の亡念だという。  ---南紀土俗資料よりーーー

ねじ柏槙

日高別院の境内に捩れて捩れて飴でも捩じたような柏槙の老樹がある。元来この日高別院は湯川家の氏寺たる西園寺の後身で、今も同家代々の位牌を安置しているくらいである。雨の夜風の夕、天正の戦に敗北した亀山城主直春の亡魂が陰火となって城墟を出で、日高田圃をころころと転がりながらこの寺を訪れると言い伝えられている。而してこの火が飛んでくるとこの柏槙がきりきりと捩れだすのが例で、遂に今のように捩れたのだという。

ーーー南紀土俗資料よりーーー

鳶 松

昔、日高に大洪水があったとき、一羽の鳶が命からがら野口山の頂へ逃れた。そしてしばらくあたりの物凄い有様に見とれていたが、ふとどこかに飛んで行きたくなり立とうとすれども足が地に着いたまま身動きも出来ぬ。ピーンヒョロヒョロと悲しんでもがくほど不思議に足が地の中に吸い込まれてゆく。だんだん弱り弱って声もかすれついには化けて松の木になってしまった。今の鳶松はこれであるという。     ーーー南紀土俗資料よりーーー

袈裟掛け松

名田村野島の草履塚のあたりに清姫の袈裟掛け松があった。丈は低いが枝が垂れて横に張った松で伐れば血が出るとて誰も触れなかった。祓井戸の一里塚の松が枯れてから間もなく自然に枯れてしまった。ーー南紀土俗資料よりーーー

八房梅

塩屋村北塩屋の円満寺にある。八房梅とは蓮如上人の命ずるところだそうで、この実を普通民家に植えると祟りがあるという。

ーーー南紀土俗資料よりーーー

赤 岩

野口村大字岩内鈴木家の下(日高川)に赤岩という大きな岩がある。古伝に、大水が出て激流が来るごとにこの岩が水を跳ね返して、いつも堤防の決壊を防いだ。その岩下には一種の魔物が住んでいて人や船が行くと直ちに飲んでしまうのが例であったが、いつしかそれがなくなってスズキという魚に変じたという。   ---南紀土俗資料よりーーー

富 安

湯川村亀山の北に富安という大字がある。昔、湯川家(亀山城主)の奥方がここに産室を構えて安産せられた。この奥方の名を富の前と言われたので、それに因んで村の名を富安と称せらるるに至った、

ーーー南紀土俗資料よりーーー