地域医療の範 ーー羽山維碩・羽山直紀ーー

羽山維碩は文化5年(1808)に印南原村に生まれました。幼名を芝之助と言います。

維碩はその通称です。また号を大学と言いました。

京都に出て医学を学び、帰ってから北塩屋浦(現、塩屋町北塩屋)で開業しました。天保5年(1843)頃のことです。医師として一生懸命病人の治療に励んだため、日高郡ではだれ知らぬ者のないほど有名になりました。

嘉永3年(1850)蘭医によって長崎に牛痘がもたらされます。                        翌年それが和歌山藩に伝えられることとなり、これを知った維碩は天然痘予防の立場から率先して牛痘を用いての種痘の普及に努力しました。維碩は種痘が有益でかつ無害であることを地域の人たちに知らせるために絵入の冊子を作って、それに種痘を受けた人で「万一天然痘にかかる人がいたなら金5両と米一俵を差し上げます」と書きつけ大いに宣伝に努めました。

おかげで日高郡は県内でも最も早く種痘が普及した地域となりました。                                 維碩はまた、大変よく効く置き薬を調合し製品化して人々に配布したことによっても知られています。

維碩は明治11年(1878)に死没しました。享年70歳でした。                                  残した著書には幕末から明治維新までの我が国の様々な情報を求め得て記録した「彗星夢雑記」(115冊)や随筆「杏花園雑記」があります。大学と言う名にふさわしい著作です。

維碩の養子となった直紀は弘化3年(1846)の生まれで楠井村(現、名田町楠井)出身の人です。                   養父の維碩から漢学の手ほどきを受け、のちの大阪の緒方洪庵の門に入って蘭学を修めます。                帰郷していったん開業しますが、再び和歌山医学校に入学して医学を学びます。                                その後、明治12年(1879)塩屋村で開業し最新の医学知識と技術を駆使して患者の治療に励み名医として広く知られるようになりました。                                                                             直紀は人々に推されて塩屋村の村長も努めますが、その折自ら養蚕の手本を示し養蚕業の振興に尽力します.                                 その結果、養蚕の功労によって表彰を受けました。                                             直紀の子息はいずれも秀才でその多くは医学を志しますが、惜しいことに学業半ばで病を得て夭折します。                    ことに長男の繁太郎と次男の蕃次郎は世界的博物学者、南方熊楠と深い親交を結んでいたことによって知られています。       牛痘ーーー牛の天然痘 その痘毒を人体に接種し天然痘の予防に用いる。                                           

「御坊ゆかりの先人たち」から引用

     新田開発 --平井正次、栗本新兵衛ーー

関ケ原の戦い(1600年)を中心とした前後50年ほどが、我が国の全時代を通して最も土木技術が発達した時代です。   わが国で幕末までに行われた主要工事の約40%がこの時代に集中しています。                      こうした動きは日高川下流でも同じで、比較的大きな水利工事が行われました。                     1600年初めの土木技術では、日高川の近辺には土地の低い畑地が多く水田化されていませんでした。          しかも堤防が十分でないため、河川が荒れればたちまち河原になってしまいました。(今も子字名として「大河原」が残っている)そこで、耕作人不明の多くの荒れ地がありました。                                この日高川沿いの膨大な『主なし』の荒れ地開発に活躍したのが平井正次(九左衛門)でした。              正次は1580年日高郡薗財部荘(現御坊市)で生まれ、元和七年(1621)和歌山町方与力として召し抱えられ切米30石を与えられました。                                                寛永六年(1629)正次は川辺町若野圦本(ゆりもと)で日高川をせき止め、それを右岸に導いて、旧矢田村、藤田村、湯川村、御坊町の田、260町歩を灌漑し、水門より水末に至る溝渠延長一里二十町の若野井堰を設計し、工事を指揮しました。 これにより400筆余りの畑地は次々と水田になり、この結果石高が増え、一四八石一斗六升九合の増加分を検地帳に記しています。                                                      翌年、その功績にで吉田村出島に一町四方の新田と屋敷地を与えられました。                      若野井堰完成の年創られた大字野口字三年垣内で、日高川の水を左岸に入れ、野口一円の水田九十四町を灌漑した野口堰も平井正次の設計ではないかと言われています。

寛永15年(1638)正次は水野平右衛門に従って島原の乱に出陣しています。                     明暦3年(1657)11月18日、78歳で亡くなりました。                             正次の亡くなった十一月十八日は、十と一で「土」、十と八で「木」と言う字になり「土木」となり、「土木の日」と呼ばれています。昭和62年(1987)に、暮らしを守り支えていく土木の世界を一般の人々にも正しく理解してもらうために定められたのですが、正次が土木で活躍したことをいつまでも私たちに印象づけてくれたのかもしれません。

土木技術の発達により日高川近辺の畑地が水田になり、二毛作が広まり石高が増したものの、何度もの干ばつや飢饉に見舞われ餓死するものも出てきました。                                            天保の大飢饉では、道に多くの餓死者が横たわっている大変な年でした。                        これに心を痛め立ち上がったのが栗本新兵衛でした。                                 新兵衛は、佐直武左衛門の三男として生まれ、初め、平吉と呼ばれていましたが、後に新兵衛と名乗るようになりました。  薗浦の柏木源次の後継ぎとなり、一生懸命木材業を営み、また海運業を起こして大阪・江戸各地に販路を広げました。    天保8年(1837)新兵衛は、貧民救済のために私費を投じ、日高川沿岸の埋め立て工事を行いました。         これによって貧民たちは仕事を得ることが出来、字土手に水田一町三反余を開きました。                 いまなお、「茶新新田」と呼ばれるのはこれのことです。                               新兵衛はこの手柄によって地士となり、姓を栗本と改めました。

「御坊ゆかりの先人たち」から引用

農作物改良に尽くした人たち  ーー前田清右衛門・酒井治輔・中西治郎助・佐藤栄三郎ーー

江戸時代の終わりころから、この地方では、甘藷と呼ばれたサツマイモの栽培が始められていました。               寛政二年(1790)頃に野口村の前田清右衛門が、讃岐の国(現香川県)から甘藷の苗を取り寄せて栽培したところ、忽ち各地に広まったと伝えられています。                                         その後、文化四年(1807)頃には、名田村の大庄屋、酒井治輔が名田村の上野・楠井で初めてサツマイモを栽培したとも伝えられています。                                                 幾日も雨が降らず稲の穂が出なかったり、長雨が続いて毎日寒くて稲が実らないこともあり、大飢饉となったりして苦しい生活を乗り越えるため、コメ作りだけでなく、畑作物の食糧作りにサツマイモつくりを取り入れてきたのでしょう。       前田清右衛門も酒井治輔も、飢饉から救ったり、少しでも楽な暮らしが出来るようにと自分が経験したこともないイモづくりに挑戦していったのでしょう。                                            初めてのことをやり出すことは勇気のいることです。                                  それを実行に移していったことは大変なことであったと思います。                           明治二十年ころまで栽培していたサツマイモの品種は「九州イモ」と言われるもので、収穫量が少ないうえに冬期の彫像が難しく、半分は腐らせてしまいました。それで農家は収穫すると安い値段でも仕方なく獲れたイモの大部分を早く売らなければなりませんでした。                                                  明治三十年(1897)頃、当時二万キログラム前後のサツマイモを船に積み込んで和歌山市や大阪・神戸市方面へ卸売りしていた中西治郎助と言う人が、和歌山の市場から評判の良い『源氏』と言われるサツマイモの種を手に入れ、それを試作した結果、九州イモより収穫量も多く甘味もあり、耐寒性に優れていることが実証されました。そこでこの源氏を各農家に勧め、広めていったので農家の収益は一段と増加し、水田の少ない名田村の主産物として農家の経済を支えてきたのです。       畑作でその他、除虫菊、ケシ、スイカと、その時その時の収益の良い作物を栽培し、養蚕も古くから営まれて農家の副業として多くの収入を得ました。                                                     明治十二年カナダから帰国した佐藤栄三郎が、オランダエンドウの種子を持ち帰り、自分の畑で栽培し農作物として生産することに成功しました。佐藤は、このエンドウの調理法や栽培法を教え、温かく霜の降りない名田村の気候とうまくかみ合って広く栽培され農家の収益は一層増加しました。                                       前田清右衛門・酒井治輔・中西治郎助らの苦労や努力によって名田村のサツマイモの品質が良くなり、生産量も増加し、佐藤栄三郎のオランダエンドウの栽培成功で名田村の農業はますます盛んになり、多くの人々に農作物が届けられ、みんなの生活も向上していったのです。                                               水の少ない名田村の農業にはどうしても水が必要でした。日高川から水を引いてくる畑灌事業は、長い年月と多くの人々の苦労や努力・協力で成功し、そのおかげで多くの作物が生産され、現在は有名な花の生産地となりました。

「御坊ゆかりの先人たち」から引用

池の開発  --柏木浅右衛門・鈴木立庵ーー

江戸時代、池の開発に活躍した二人の人物がいました。                                 一人は柏木浅右衛門です。彼は寛政年間末期、東内原村(現日高町)荊木に生まれました。                 そのころ、上富安・下富安・荊木に広がる段々田んぼは灌漑用水が得にくく、長い夏の間谷川から水をくみ、稲の一株一株に土瓶でかけて回ると言った重労働で、干ばつに悩み、飢饉に苦しむ人々の生活を見て彼は成長しました。           水さえあれば救われる。彼は東谷(御坊市北端)にため池をと一念発起して単身和歌山近郊に出稼ぎし、川や池の普請に従事して腕を磨きました。天保八年(1837)故郷に戻り、東谷に新池築造の試案を村人に説くも、ことのあまりにも壮大な計画に人々はためらうばかりでした。                                           浅右衛門は私財一切を投げ出し、労力全てを奉仕して池普請に情熱を傾けていきました。                 半信半疑の村人たちも情熱に燃える彼の姿に励まされ、忽ちにして一万有余の人々が伊勢参宮講を結成して経費を整え、大事業に着手してゆきました。                                                しかし、浅右衛門は辛労のあまり病を発し、天保九年(1838)四月、工事半ばにしてせっきょしたのでした。       その後、天田・入山組の大庄屋が遺志を受け継ぎ、天保十二年(1841)ついに堰堤七十六間(137m)の大貯水池、新池の完成を見たのでした。                                              以後160余年、上富安・下富安・荊木にまたがる150町歩の豊かな水田は、今も恩恵を受けていて、新池築造の発起舎柏木浅右衛門は忘れてはならない郷土の恩人なのです。

もう一人の恩人は鈴木立庵です。                                           鈴木家は代々医業を継ぐ旧家。名医として広くその名を馳せていました。                         第六代鈴木立庵は岩内村(現御坊市岩内)に生まれ、江戸(天保)時代に偉業をなした郷土の恩人です。           そのころ、岩内の田地は畑やロウソクの原料となる櫨畑がほとんどでした。僅かの水田も水係が悪く、日照りの夏など農家は日高川から水をくみ上げて来て稲株に土瓶で水をかけて回ると言った重労働、苦難を強いられてきました。          医業の傍ら篤志家として名高い第六代鈴木立庵は、人々の干ばつに苦しみ、田地の少なさに心を痛めました。         彼は私財を投じて、熊野、後谷池(堰堤約四十間)の大改修を発起し工事を完成させました。                更に池から長短三つの導水トンネル掘削を計画、立案し、敷居を用いて水を流すなど傾斜を測り苦心惨憺の末、岩内まで延々2000mの灌漑用水路を築造して、岩内、熊野に約四十町歩の水田の開発を見たのでした。               岩内村のために尽くされたその功労・偉業は多大なるものであり、子々孫々村人から尊敬されました。           岩内村の人々にとって第六代鈴木立庵はかけがえのない恩人なのです。

「御坊ゆかりの先人たち」から引用

清高の画家  --日高昌克ーー

新しい水墨画の境地を切り拓き、清高の画家として高く評価されている日高昌克が、本格的に日本画をやり始めたのは、昭和十二年(1937)東京資生堂ギャラリーで初めて個展を開き、画業専念のため東京杉並区に移り住んだころと言えます。   時に昌克五十四歳、画名を生国の日高にちなんで日高昌克と改め、それまで培ってきた医業のすべてを捨てての出発でした。

日高昌克(池田昌克)は、明治十四年(1881)六月十四日、御坊村西町(現御坊市西町)の医師、木村元寿の長男として生まれました。母の名を飛佐と言い、父は華岡青洲のもとで塾頭を務めた人で姉が三人いたと言う事です。           のちに、和歌山市の親戚、池田家の婿養子となりました。                               明治三十四年(1898)に亡くなった父の跡を継ぐため、京都府立医学専門学校に入学、卒業後は一時医師として勤め、医院を開業するものの、さらに勉強のため、明治三十九年(1906)に京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科教室に入室、明治四十二年(1909)には日本赤十字社和歌山支部病院耳鼻咽喉科初代医長に就任、二年後に和歌山市南汀丁の自宅に医院を開業しています。                                                     これ以降は生活も安定し、若いころから興味を持っていた日本画を習い始めます。画を通して野長瀬挽花・榊原紫峰らとの交遊が始まるのもこのころからで、博物館の古い名画と接して日本画にますます引かれ、当時傾倒していた橋本関雪や富岡鉄斎の門を叩いています。                                                 特に鉄斎からは、「私は弟子を取らぬことにしている。私もこれと言う画の師匠にはつかなかった。古画と自然とを師と仰いできた。あなたのやっていることは正しいと思う。それを推し進めて一派を立ててはどうか」と言われ、その時の話がその後、いずれの画壇にも属さず、独自の画風をなしてゆく昌克に大きな影響を与えたと言われています。              このほか、医師仲間とはかつて立ち上げた黒鳥社の同人としての活躍も見逃せません。                  第一回展覧会は、当時の地方としては規模も大きく、日本画と洋画部門を持った画期的な公募展で、県内初の催しでした。  その後、黒鳥社は和歌山画壇の母体となる和歌山県美術協会の下地となりました。                    このように昌克にとっては、この時期は日本画に親しみ画業を通して交友を広め、よりどころを模索していた段階と言えます。だから、作画そのものは、南画風であり、大和絵風であり、克明描写ありと言った具合であるが、第六回国画創作展に 「風景(池)」が入選を果たすなど、技量に一定の高まりがみられます。                           ところが、晩年の人生を画人としての道を歩んだ昌克の東京での生活は、それほど長くは続きませんでした。        一時、美術工芸学院の教授として芸術論と水墨画の実技を教えたりしたが、二年ほどで去ることになります。        この間に満州国の写生旅行、個展の開催、そして作画と画業に没頭する日々で、昌克にとっては最も楽しく過ごせた時ではなかったかと思われます。                                               昭和十六年(1941)東京から帰ると、持病の関節リュウマチが悪化し、歩行、作画が困難となり、さらに空襲で自宅と収集していた大事な美術品のすべてを失うなど、心身ともに大きな痛手を受けたが、さらに画を描きたい思いは強く、戦後ようやく作画出来るまでに回復しました。                                          しかし、この頃は最も得意とする山水を主なモチーフに水墨画を描いてみたものの、満足感を覚える作品が思うようにできなかったようで、日記代わりにしていた手帳には、「画を描く ミレー及び後期印象派の画を見直す 画技ゆきつまる 転画を要す」「画想ゆき悩む 何で深い画が出来ぬか 私はだめか」「絵出来ず 自己の天分を疑う」などと記し、時には旧作を回収したりしています。                                                 ところが、昭和二十八年(1953)六月東京壺中居で陶芸の川喜多半泥子との合同展で発売した着彩画が、谷川徹三・林武・福島繁太郎・佐藤春夫らの目に留まり注目されます。これは昌克が墨のみに執着してマンネリズムに陥る危険を防ぎたいとの理由で始めたもので、従来の水墨(若干の淡彩を含む)のみの世界に対し、水墨を骨格にしてそれに岩絵の具で肉付けしていく新しい試みでありました。                                              その後、日本画と洋画の調和をもって新しく切り開いたこの着彩画の画風は、「二十世紀の最も美しい印象派的絵画である」とか「東洋と西洋の出会い」あるいは「東洋風と西洋風の成功した融合統一」と評価されました。              これを境にして古典の回数も増え、昭和三十二年(1957)には和歌山大学長岩崎真澄などの助力もあって、アメリカのフィラデルフィア美術大学で、また翌年には同展の好評によってサンフランシスコ美術館、サンデイエゴ美術館で個展が開催されるなど、晩年に花が咲いた日高芸術の独自性が一部の人たちであったが認知されるまでに至りました。            それでもなお『自分の画業はまだ道半ばで、将来、水墨画によっても着彩画と同じような色を感じさせる作品を生み出したい」と語り、自己の画業追及に対する意欲をますます掻き立てていたが、昭和三十六年(1961)七月二十日、七十九歳で死去。なお、日高昌克に関連して遺稿集「清虚」と「日高昌克画集」が刊行されています。

「御坊ゆかりの先人たち」から引用

白浜温泉開発の父  --小竹岩楠--

南紀白浜温泉といえば、東の熱海、西の別府と並ぶ古い歴史を持つ温泉郷で、湧き出る湯も多く、紀南の発展に大きな役割を果たしています。この由緒ある白浜温泉郷を近代的な温泉町として今日の繁栄の礎を築いたのが小竹岩楠です。        岩楠は、明治七年(1874)御坊市島の塩路彦七の次男として生まれました。                      小学校・中学校は、首席で通したといわれています。                                 御坊市御坊の小竹家の養子となり現一橋大学へ進んだが病気のため退学しました。                    その後元気を取り戻した岩楠は、実家の兄弟と協力して親から引き継いだ木材業を営み、旧に勝る財産家となりました。   明治四十年、岩楠は御坊の西川下流に日高地方で初めての製材所を設立しました。                    明治四十三年には、以前から考えていた日高電灯会社を設立し先頭に立って活躍しました。三十七歳の時でした。      近代産業発展のための電力の必要性を見越し、日高川水力電気株式会社を設立し、のちに社長となりました。        白浜は、古くから温泉が自然に湧出して「牟婁の湯」として親しまれてきましたが、白浜温泉は、大正の中頃から人間の手によって温泉を掘り、計画的に開発された新しい温泉地です。田辺の人たちが温泉を掘りましたが井戸掘りの方法であったので成功しなかったという話を聞いた岩楠は、その権利を譲り受け、海中温泉掘削という困難な工事であったが、大正九年、108m掘ったところで温泉が湧きだし掘削工事は成功しました。                               次に旅館白浜間の建設に着手、翌年九月に完成しました。緑のタイル張りの浴槽には海中温泉から引いた湯が、とうとうと溢れていました。                                                       新しい白浜温泉の誕生でした。                                             お客さんを白浜に呼ぶために床の高い自動車を十台ほど輸入して走らせ、田畑・山林を買収して道路の整備・改修にも力を注ぎ、当時県下に数社あった自動車会社を買収して、白浜温泉自動車株式会社を設立して社長となりました。         岩楠は、着々と白浜温泉を開発し、一大温泉郷を築く一方、熱心な浄土真宗の信者として朝夕の礼拝は欠かさなかったといわれています。                                                   「一つの仕事をやり遂げるには、その仕事の専門家になれ」「少しくらいの失敗にめげず、我慢強く続けよ」というのが信条でした。彼は偉大な実業家であるが、ただ営利を追い求めた人ではなく、常に地域の発展繁栄を基礎に置き奉仕主義に貫かれた人間的にも奥深さを持つ人として信頼され敬慕されたのです。                              昭和八年(1933)紀南西線(現JRきのくに線)白浜口駅までの開通を目前にしながら、六十歳の生涯を閉じました。  白浜温泉町の小高い山の上にある常喜院の境内には、岩楠の銅像が建てられ、白浜温泉の発展を今も見守り続けています。

「御坊ゆかりの先人たち」から引用   

社会事業に貢献した実業家  --戸田実ーー  

「徒手空拳」『裸一貫』と言う言葉があります。自分の体の他には何の資本も援助もないーーと言う意味ですが、戸田実はその言葉通りに誠実で正直、熱心な仕事ぶりで得た『信用』だけを基に、一代で戸田商店をはじめ戸田汽船(株)、日東海上火災保険会社を設立。そのほか友人と共同で数社を経営して取締役を務め、さらには頼み込まれて地方産業を発展させるため故郷和歌山、御坊に戸田銀行、日高紡績会社を興した特筆に値する実業家です。                         また。家事の都合により学業を中断しなければならなかった自らの経験から「戸田奨学金」を設けて、多くの苦学生を援助しました。その中には有望な外交官や大学教授が生まれるなど、社会的な事業に惜しむことなく私財を投じた戸田を『恩人』と語る人は多い。                                                    戸田は明治八年(1875)十二月十二日に日高郡藤田村(現御坊市藤田町)に生まれました。               父彌三郎は和歌山藩士で、廃藩後は日高郡役所に勤めて藤田村に住みました。地方産業の開発に熱心な人で、村内に養蚕を奨励して桑苗を植えて回りましたが、明治二十二、三年と続いた紀南大洪水でそれまでの苦労は水の泡となりました。      幼いころから大人たちを感心させるほど賢く「神童」と呼ばれていた戸田は、当時の御坊小学校から和歌山中学へと進んでいましたが、やむを得ず中途退学することになります。                                  その時、戸田を励ましたのは「学問するよりも傑人に従って鍛錬を受ける方が得策だ」 という母方の祖父の言葉でした。  戸田が勇猛果敢な志を立て、神戸海運界の開拓者である佐藤勇太郎氏を訪ねたのは十八歳の時。              以来、佐藤氏の優れた人格に感化され、人々の信頼を得て実業家として成功を収めた戸田の人間としての基礎を築くことになります。「商人は誠実を旨とし嘘をつくべからず、但し秘密は厳守すべし」との佐藤氏の訓言、また「着実にして勇敢たれ」「仕事のために仕事せよ」「卑しからざる紳士たれ」などの口癖を耳にし、さらに部下の失敗は咎めず、病に伏して出勤できないものには特別の手当てを与えて全快を祈る氏の姿に、戸田は絶大な尊敬を抱いて懸命に働きました。             その間も、戸田は自分の生活は質素謹厳にして支出を抑えて、その分を下級社員や給仕たちの学費に充てて夜学へ通う援助をしています。                                                    戸田に仕事ぶりを信頼した佐藤氏は、十年も経たずして戸田を支配人に抜擢。戸田もそれに応えて手腕を発揮して利益をもたらし、佐藤のパートナーとして対等の地域に就くまでになりました。                           戸田三十四歳の時、日露戦争の反動で事業上の大緊縮に迫られた際、戸田は自ら申し出て『最高の俸給者』である立場を捨てしかも恩人である佐藤氏の事業に差支えがないように門司へと移り住んで、無一文で事業を起こすjことになります。      資金は全くありませんが、戸田には十五年間、佐藤氏から受けた無形の財産、人間として実業家として培われた『信用』が大きな自信でした。                                                     戸田商店は順調に発展し、三年後には佐藤氏の招きで工場に本店を移し、さらに友人と共同で東和汽船株式会社を設立し、中国に支店を設置するなど貿易に携わるようになります。                                 戸田の事業は機運に乗り、日東海上火災保険株式会社の他数社の経営に及び、地方からの要請で和歌山、御坊に戸田銀行や日高紡績会社も設立します。世の中の状況を見通す力に優れた戸田は、莫大な利益を上げ実業家として大成功を収めました。   しかし、戸田がその利益を自らのものとしたのは母親のために家を一軒建てただけで、あとは戸田奨学金や和歌山高等商業学校(現和歌山大学経済学部)設立費などの社会事業に使われたのでした。                         利益を正しく求め、正しく散ずる正義の人ーー戸田実は、自らを育て生かしてくれた恩人知人への感謝と恩に報いる気持ちを終生持ち続けて、昭和九年(1934)三月に、五十八歳の人生を終えました。

「御坊ゆかりの先人たち」から引用 

哲人政治家  --田淵豊吉ーー 

田淵豊吉は、明治十五年(1882)二月二十三日に御坊市新町の古い酒つくりの家「いせ屋」田淵善兵衛の四男に生まれました。小学校の頃から勉強が好きで、昼は学校で勉強し、夜も小学校の校長である薗和四郎先生の家に出かけて英語と漢文を学びました。小さい時から何事もいったん心に決めたら最後までやり通さなくてはならないという意志の強い子供でした。    このようにやる気のある子供であったので、校長先生も熱心に指導されました。                     小学校を卒業するとすぐに県立和歌山中学校へ入学しましたが、健康を害して間もなく退学し、少しの間休んでやっと元気になったので、今度は県立田辺中学校に入学しました。                                 病気のため休学して再入学したため、クラスの中では年長者であり、どことなく大人びており、その上全ての学科は優秀で、特に英語はクラスの中でもずば抜けてよくできたので、「オトウ(お父)」と呼んで、クラスだけでなく上級生からも下級生からも親しまれるようになりました。                                          英語の勉強の仕方は、便所の中に辞書を一冊置いて、便所に行くたびに一分二分の時間を利用して単語を一つ一つ暗記し、  一ページ暗記すると一枚破って捨てると言う方法で、一年足らずのうちに一冊の辞書を覚えてしまいました。         勉強に疲れてくるとよく写生に出かけました。 豊吉の描く絵は扇ヶ浜の松の木でした。                 毎日毎日同じ絵を描くので、通りかかった中学生が「おい、またオトウが松の木を描いている」と言ってはやし合うようになったが、豊吉は一向にかまわず同じ松の木を自分が気に入るまで描き続けました。                     全校生徒がその熱心さに「我々はとてもオトウのまねが出来ない」と言って感心しました。                そのころから、一人で生活したいと考えた豊吉は、家を借りて自分でご飯を炊いたり洗濯をしながら勉強するようになりました。うまいものを食べなくては天下を治める気力が起こらないと言って、よく牛肉を買いに行きました。          中学校四年の時、田辺中学校を退学してすぐに東京に行き、早稲田大学を受験し見事に合格しました。           早稲田大学には、永井柳太郎、中野正剛と言う東京都下の学生弁論界を支配している学生がいました。           豊吉もこの連中に負けないように頑張ろうと、戸塚街道(今の横浜市)の松並木に上って演説の稽古を続けました。     このことが戸塚村民の評判になり、間もなく行われた戸塚村(現横浜市戸塚区)村会議員選挙で最高点で当選しました。   これが中央政界入りのきっかけとなったのです。                                   明治四十一年(1908)早稲田大学を卒業し、四十四年から大正四年(1915)までアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスに留学して政治経済と哲学を勉強しました。                                    豊吉が和歌山県選挙区から衆議院議員に初めて当選したのは、大正九年(1920)五月の総選挙であり、満二十八歳の時でした。以来、五回当選し、二十年近い政治生活の間、ついにいづれの政党にも属さず、孤軍奮闘し、ひたすら理想とする政治を追求しました。                                                   豊吉は、権力に屈せず、常に国のため国民のためにと活躍した哲人政治家でした。                    女性の参政権、弱者の公費救済、労働条件の改善などを基本政策として議会演説に政治生命をかけました。         先見の明があり、いつも五十年先を見つめていました。                                第二次世界大戦に突入する時は、「この戦争は加点、やってはいかん!」と忠告しました。                また、飾ることのない、ありのままにふるまう言動から、俗に田淵仙人と言われています。                御坊市とその周辺での豊吉は、当時の地域住民の大多数から、信頼され親しまれました。                 選挙が近づくと自分の稼業を放りだして走り回り、自分たちが資本を出し合ってまで豊吉を衆議院へ送り込みました。    ある時、豊吉を御坊市長に担ぎ出そうとしましたが、「お前、クジラが泉水で泳げるか」と言って断ったと言うエピソードも残されています。自分の使命は、あくまでも国を動かすことであるとの強い信念を持っていたからです。           小さいころから勉強が好きで自立心の強かった哲人政治家田淵豊吉は、昭和十八年一月十五日(1943)郷里である御坊市新町で病により六十一歳の生涯を閉じました。

「御坊ゆかりの先人たち」から引用  

砂漠に咲く花のように  --清廉の士・林出賢次郎ーー

「砂漠に咲く花のように、人知れずとも清く自らを生き抜こう」 それが林出賢次郎の決意であり、実践した生き様でした。  賢次郎は明治十五年(1882)美浜町に生まれ、十三歳の時御坊市小松原の林出家の養子となりました。          翌年和歌山第一中学校に入学。草鞋を履き、未明に御坊を出て徒歩で熊野街道を上り、夕日を浴びる頃和歌山市に入りました。それから賢次郎の中学生活が始まりました。                                     同郷のもので就学できるものは少なく、就学できることを幸せに思い、発奮した賢次郎は常に主席を競う級長を歴任しました。担任より進学を進められ、中学校卒業後一年ほど紀三井寺高等小学校の代用教員を務めました。              しかし、勉学の志を捨てきれず、県費留学生選抜試験を受験し見事合格。栄誉ある県費留学生として県下で初めて選抜されたことから、養父母も賢次郎の進学を許し、上海の東亜同文書院に入学しました。                      賢次郎は夏休み中も、中国各地の民族調査や語学の鍛錬に打ち込み、与えられた三年間の留学生活の間一度も帰郷しませんでした。                                                       明治三十八年(1905)四月、卒業と同時に外務省に通訳として嘱託で採用され、ロシアと中国の国境地帯の調査を依頼されました。戦争が激しい時で、死を覚悟しての調査となり、髪形も服装も中国人になりきって大平原や砂漠をラクダに乗って何万キロも旅しました。それは自然と闘ってゆく不撓不屈の精神と忍耐がなければできないものでした。            賢次郎の「砂漠に咲く花のように』と言う信念は、見渡す限り砂漠の中で、珍奇な美しい花に出会い「時あって咲いたこの美しい花をたまたま鑑賞することが出来たようなものの、自分以外の誰がこの花あるを知って鑑賞するだろうか。おそらく一生に一度も観賞されることがないかもしれない。しかしそんなことにはお構いもなく、くる年もくる年も同じように花を開くであろう。よし、自分もこの砂漠の花のように黙って咲き、黙って散っていくことにしよう」(石川順著「砂漠に咲く花」より)と誓ったものでした。                                                二年にわたる国境地帯調査の後、外務省通訳として正式に採用され、外交官として中国各地へ赴任しました。        昭和七年(1932)満州国建国に伴って、新京日本帝国大使館に、昭和八年(1933)満州国執政府「行走」に任命されました。溥儀は流ちょうに清朝の宮中語を操る賢次郎に心を引かれ、厚い信頼を寄せていました。              常にニコニコしており太陽のように明るく温かく「ミスター・サンシャイン」と呼ばれていた賢次郎でしたが、「通訳に当たる時はすでに林出はない」と言い切るように、溥儀の通訳をするときは笑顔もなく真剣そのもので、全く別人のようでした。  昭和十三年(1938)三月、溥儀の反対にもかかわらず、東条英機の通告により、賢次郎は溥儀の通訳を解任され北京大使館に転勤となりました。そこでは、日本軍人の行き過ぎた行為に対して心を痛め、外務省職員に誠心誠意中国人に接するように忠告し、自分はいつでも辞めるつもりで辞表を懐にして職務に励みました。                        その後、在職三十六年に及ぶ外交官生活を終わり母校東亜同文書院の学生監に就任のため上海に赴任(昭和十六年五月)しました。                                                       昭和十八年(1943)五月より宮内省式部職御用掛被抑付として天皇・皇后両陛下の通訳を承りました。         激しい戦争末期の東京での単身生活でしたが、精神的には生涯最高の感激に満ちていました。               昭和二十三年(1948)十月、賢次郎より願い出た「賜暇をいただくこと」が許されました。              御坊に帰ってからは、健康のため「五こう」(1.信仰 2.品行 3.健康 4.実行 5.続行)を守り、観音経を唱え、読書写経し、来客の応対、講演等に出る他はほとんど書斎において謹厳な生活に明け暮れました。             さらに賢次郎は、有意の人々の賛同と寄進を仰ぎ、東京高輪の泉岳寺に立派な慈航観音堂を建立しました。         昭和四十五年(1970)十月床に伏し、同年十一月十六日、八十九細にて永眠。                    賢次郎の意志は今日もたくさんの人々に心の安らぎを伝えています。

「御坊ゆかりの先人たち」から引用

養鶏産業の先駆者  --吉田八五郎-ー

安くて栄養満点の卵は、毎日の食事に必ず使われているといってもいいでしょう。                     しかし、かつて卵は簡単には口にすることができない高級品として扱われ、もみ殻を敷いた紙箱に丁寧に並べられ、贈り物としてか特別な時以外は手に入らないものでした。それは卵を産んでくれる鶏の世話が大変で、たくさんの卵を産ませることがむつかしかったからです。                                               その卵を高級品から現代のようにどの家庭でも、いつも食べることができるようにしたのが吉田八五郎でした。       八五郎は明治四十三年十二月十九日、日高郡藤田村吉田(現御坊市藤田町吉田)に、父鶴松、母うたえの四男として生まれました。大正十五年三月、フジタ尋常高等小学校を卒業後、畜産業に従事し、終戦後の昭和二十一年十一月に採卵養鶏場を始めます。当時、郡内」では最大の養鶏場で、昭和二十七年一月に孵化業務も開始して、社名を「吉田養鶏孵化場」と改めて以来、「ヨシダのヒヨコ」として広く知られるようになります。                                 このころの養鶏は「庭先養鶏家」と言われ、200羽から300羽の鶏を飼って、日夜を問わず働き続けなければなりませんでした。収入を上げるには鶏の数を増やすことですが、それ以上はとても人の手が回る状態ではなく、「何とか局面を打開したい。それには作業の省力化、機械化以外に方法はない」と、八五郎は考えました。                    それまで機械のことなどには詳しくなかった八五郎ですが、「養鶏業を盛んにしたい」との一心から、日々の仕事を通して様々な発想を展開。研究に研究を重ねて昭和三十三年(1958)十月、日本で最初の「手押し給餌機」を発明しました。    バケツに資料を入れ、手でえさの樋に蒔いていくそれまでの作業に代わって、「手押し給餌機」は上部のタンクに飼料を入れ、ケージ上部のレールの上を走らせながらローラーの回転を利用して、パイプから一定量の飼料が鶏の前に落ちていく仕組みで、操作は簡単で故障がなく、作業の能率は以前とは比べ物にならないくらいに向上しました。                また、人力だけに頼っていたころは、鶏舎のつくりも二段式飼育がほとんどでしたが、鶏の数を増やすことも可能になりました。今では改良を重ね、鶏舎は八段式飼育にまでなっています。                            評判を聞きつけた同業者たちは、次々と八五郎のところへ給餌機の注文に訪れました。                   八五郎の志は、広く全国の養鶏産業の繁栄を願うものとなり、よりよい機器の研究・開発にたゆみない努力を続けることになりました。                                                     息子の目に映る八五郎は「厳格な人。一度心に決めたことは必ず成し遂げようと努力を惜しまない。何日も研究に没頭し、試作を重ね納得できるものを作り上げるまで決して諦めなかった。生涯、研究を続けていました」と、その姿を語っています。  手押し給餌機に始まった養鶏の機械化は、工夫・改良を繰り返してから給水から、自動給餌器、手押し集卵装置、選卵機を組み合わせ、最終のパック詰めに至るまでの全自動養鶏システムを確立。現在、ヨシダエルシス(株)と社名変更した同社では、 このシステムにより36,000羽の鶏を三人で飼養、管理できるようになりました。                  八五郎の研究・努力により、我が国の養鶏家は合理化と大規模経営を進め、卵の安定供給を実現しました。         時代の移り変わりとともに貨幣価値や物価は変わってきましたが、卵の価格は40年近くほとんど変わりがなく、むしろ安くなっているといえます。それが、卵を「物価の優等生」といういわれです。                       八五郎の長年の努力と全自動養鶏システムの開発による養鶏産業発展の功績をたたえて、昭和五十一年(1976)十一月には黄綬褒章が、続けて平成元年(1988)四月には勲五等瑞宝章が授与されました。                   不屈の精神力と実行力、また公共への奉仕を惜しまぬ人柄は人々の信望を集め、日本の養鶏産業のトップとして業界をリードしてきた八五郎は、平成十三年(2001)一月三十一日、九十歳の生涯を閉じました。

「御坊ゆかりの先人たち」から引用

「ハス博士」 --阪本祐二--

二千年の眠りから覚めて現代に美しい花を咲かせる大賀ハスーー古代のロマンを誘う花を恩師から託され、その品種保存に努め大賀ハスで国際交流を図るとともに、新たな品種を作り出すなど、「ハス博士」として知られる阪本祐二。          ハス研究に一途なまでの気概を持って、恩師大賀一郎の名誉をかけて守り通した人生でもありました。           阪本は大正十四年(1925)十二月二十八日、日高郡藤田村吉田(現御坊市藤田町吉田)で、父義一と母徳枝の間に男二人、女四人兄弟の次男として生まれました。                                       幼いころの夏の夜、家の近くにある道成寺で開かれる十七夜。参詣者でにぎわう境内で、本堂のハス池に、灯影に映えて林立す大きく膨らんだ蕾が、幼心に印象的だったというのが阪本とハスの最初の出会いです。                  藤田村尋常小学校から和歌山県立日高中学校を卒業後、昭和十八年四月に御坊小学校助教員となりますが、翌年入隊。    終戦を迎えて焼け野が原の東京に復員して、東京農林専門学校(現東京農工大学)に学び、大賀一郎博士に師事しハスについて教わったのが、阪本とハスのかかわりを一生のものにした、ハスとの二度目の出会いでした。               大賀博士とは、同氏が亡くなる昭和四十年まで、阪本の結婚、息子たちの命名など公私にわたって深い親交が続きます。   大賀博士にとって坂本は愛弟子であると同時に、誠実で思慮深く、研究熱心な阪本の人柄にほれ込んで、自分の人生最大の研究を託すにふさわしい男と見込んでいたようでした。                                  東京での学業を終えて昭和二十三年四月、阪本は故郷に戻り印南中学校の教壇に立つことになります。           翌二十四年には御坊中学校、二十六年には日高高等学校へ生物科教諭として赴任。学生たちと熱く語り合い、人生哲学を話してくれる阪本の授業は、絶大な人気と信頼を集めました。                               「人生の岐路に立った時、阪本先生の言葉を思い起こして勇気づけられ、決断できた」と語る人もいます。         そうして教師として勤める一方、阪本は恩師から託されたハスの研究に没頭していきます。                坂本が帰郷したころ、大賀博士は千葉県滑川から出土した須恵器の中に入っていた推定千二百年前のハスの種子一粒を発芽させることに成功していました。このことは大賀博士の持論、「ハスの種子は条件さえ整えば千年から二千年の保存は可能である」をまさに証明するものでしたが、このハスは栽培管理の失敗により枯れてしまいました。                 博士は悲嘆にくれたものの、古蓮実発芽の夢が捨てきれず、多くの協力者を得て千葉県検見川で発掘を試みることになりました。苦心惨憺の末、三粒の種子を発見し、翌昭和二十七年にその中の一つを発芽開花させることに成功しました。      発掘された種子は当時の最先端技術であった放射性同位元素や地層学的な研究から三千年前のものであると推定されました。 大賀はスト命名された古代ハスですが、高齢の大賀博士にとって、その品種保存と以後の研究は愛弟子の阪本に託すことになります。                                                      昭和三十六年、阪本は大賀ハスを分根されることになり、翌年、美浜町三尾と自宅前に作られたハス池に植え込まれます。  世界的に注目を集める大賀ハスが和歌山県の小さな市の一軒の庭先で大切に育てられることになったのです。        ハスは条件によって育てにくい植物で、自然環境や水温、肥料の量などのより生育が左右されます。            また、多種と混ざって純粋種を保存し続ける苦労も大きいのです。                           阪本は日々の生活の中で片時もハスから心を離すことができなくなりました。                      そして、大賀ハスの品種保存を続けながら大阪で開かれた万国博覧会や和歌山城内、国内の各地に広める一方で、平和の象徴ハスを通して中国、韓国、インド、アメリカなどとの国際交流にも多大な役割を果たしました。               さらに、大賀ハスを他種と交配させて新しい品種を作り出す研究も重ね、中でも天皇が皇太子時代にアメリカから持ち帰った黄花ハスと掛け合わせた「舞妃蓮」は、東宮御所に献上され、「皇太子と皇太子妃両殿下ゆかりの花。日米友好の花」と、   全国の新聞紙上を沸かせるニュースになりました。                                  ところがこの頃、学会の一部から大賀ハスを真っ向から否定する論文が出されました。                  大賀博士は、大賀ハスについての学術論文を書いていませんでした。それで学会の一部にはそれに対する疑問がくすぶっていて、大賀博士が亡くなったのを境に、一気に燃え上がったのです。そのため、阪本は大賀ハスを擁護すべく最前線に立って戦いました。論争の場は、学会誌や植物雑誌、新聞紙上と移り変わりましたが、決め手に欠けるため、なかなか決着がつきませんでした。しかし阪本はこつこつ研究を重ね、ついに花粉四分子の比率にその証拠を発見し、長い論争に幕を下ろしたのでした。                                                       その証拠をまとめたレポートを花粉学会で発表し、恩師から託された大賀ハスの名誉を守るという大役を果たした一か月後、阪本は、急性心不全で帰らぬ人となりました。享年五十四歳。昭和五十四年十二月二十九日、奇しくも誕生日の翌朝でした。阪本の功績には、勲五等瑞宝章、和歌山県立文化功労章をはじめ、各地からも多くの感謝状が贈られています。

「御坊ゆかりの先人たち」から引用

一本の杭  --自然を愛した人・黒田隆司ーー

直接会ったことがない人にも「日高高校の黒田先生」「野鳥の黒田先生」と呼ばれ、広く市民に親しまれていた黒田隆司。   その人を一言で語るなら、自然と生命あるものに対して限りない愛情を持った人だといえます。               県立日高高校の生物科教師として四十年。同校一筋に勤め、指導する生物部の生徒たちとともに野鳥の保護と観察を通して、 広く郡市民にも野鳥への関心を高めて、故郷の自然を守ろうと努めてきました。                     その功績は多くの賞や表彰といった形あるものでは表しきれないほど大きいものです。                  黒田は昭和四年(1929)五月十日、日高郡藤田村吉田(現御坊市藤田町吉田)で、小学校教員の父親重蔵と母カツの間に五人兄弟の長男として生まれ、貧しくとも常に父母の深い愛を感じながら育ちました。                    「自然は頭で考えるものではない。肌で感じるものだ」                                野を歩き、山に登り、川で泳ぎ、木の実を採りーーーそうして四季の移り変わりを花や風に感じながら、幼いころから自然に対する観察力は人一倍優れていました。                                        藤田小学校五年の時(昭和十六年)に第二次世界大戦がはじまり、戦争が激しさを増すころ、担任の先生から「これまで書いてきた作文は立派な遺稿集になる」と聞かされた黒田は、小学校入学以来の作品を「いたおよぎ」と題した文集にして残すことにしました。この一冊の文集から、黒田の人となりを十分知ることができます。                      雲にも月にも、田に水を引く水車にも、また植木鉢のコケや春に芽吹く雑草まで生命あるものとして見つめ、羽化する昆虫のサナギを観察したり、金魚の死に涙したり、父親と採ってきたホタルには、「ばんになりほたるをまくらもとにおいておきました。よがあけましたほたるはすやすやねむっていました」(小学二年、原文抜粋)と、どんな小さな生命にも優しい心を注ぎ、思いやりと尊重を忘れない少年でした。                                            昭和十七年四月、県立日高中学校(現日高高校)に入学、卒業の二十一年に生物部を発足させて、生物部顧問となり、以来、多くの生徒に自然の厳しさと素晴らしさ、生命の大切さを教えてきました。                       「自由にさせないと自主性が育たない」との教育方針から、産地の奥深く歩き回る野鳥観察の合宿では、マムシや蜂など生命にかかわることには、うるさいほど注意するけれど「好きなことをやれ。責任は持つ」と生徒に自由に計画を立てさせて、自然の中で生きていく知恵と人の和を学ばせました。                                    黒田の指導の下、その思いを受け継いだ生徒たちの熱心な活動で、生物部は市民から持ち込まれた傷病鳥の保護をはじめ、県下の野鳥分布や渡り鳥調査などで有名になり、継続的な調査実績は自然保護の基礎資料として高く評価されました。      日高川が銃猟禁止地区となったのも、近隣町でウミネコ産卵期の立ち入り禁止地区を実現させたのも、黒田と生徒たちの声でした。日高川で安心して羽を休める渡りどりの姿を見るとき、黒田生物部の卒業生、生徒たちが故郷の自然に残したかけがえのない、大きな財産を知ることでしょう。                                       穏やかで愛情深く、その広い懐に誰でも受け入れてくれる黒田を慕って、四十年間に集まってきた生徒は数知れません。   中には大学教授や生物学研究者もいますが、故郷に残って黒田の志を守り続けているものも少なくありません。       そのような生徒たちと「常に、ともに在りたい」と願っていた黒田は、自らを「私は川の中の一本の杭であり、その周囲を生徒たちが流れていってくれればいい」と話していました。                                しかし、生徒たちは流れて行ってしまうことなく、卒業後も黒田のもとを訪れ後輩の指導や自然保護活動への参加を続けて、一本の杭の周りには教え子たちが作る人の輪(和)が渦巻きを大きくしていきました。                   日本学生科学賞の十一年間にわたる学校賞や最優秀賞をはじめとする記録的な連続入賞。朝日森林文化賞ほか、県知事表彰、文部大臣表彰、環境庁長官表彰など、黒田が指導し続けた生物部の功績は、その歴史にもなっています。           黒田本人も県教育賞、御坊市文化賞、日本鳥類保護連盟会長賞を受けていますが、黒田は自分への名声や評価には一切こだわらず、黙々と自分のするべきことをしているという風に、その生き方もまた自然体でした。                 黒田がよく口にし、自己の原点となったペスタロッチの「シュタンツだより」二十一節、 「私は彼等と共に泣き、彼等と共に笑った。 彼等は世界も忘れて、私と共におり、私は彼等と共におった」その言葉を教え子たちの胸深くに残し、平成十二年(2000)四月二十一日、自然を愛し、生命を慈しんだ黒田の七十年の人生は静かに幕を下ろしました。

「御坊ゆかりの先人たち」から引用  

バンカラ先生  --山東誠三郎ーー  

明治の終わりころから大正にかけて「御坊三人組」と呼ばれ、東京の大学に入り、活躍する三人がいました。         東京帝国大学(現東京大学)法科に学んだ田淵幸三郎、早稲田大学政治科に進んだ田淵豊吉、そして山東誠三郎でした。   誠三郎は明治二十一年(1888)八月に生まれ、父重成が日高郡役所(現日高総合庁舎)に勤務した関係から、御坊人となって二十年余りを御坊の街で過ごしました。                                      少年期、日高川縁の釣り遊びや、道成寺詣で、浜ノ瀬での砂遊びを楽しみました。                    明治四十一年(1908)春、関西学院中等部を卒業した誠三郎は、同郷の先輩鎌田栄吉氏【慶應義塾大学塾長】を慕い、慶應義塾大学理財科に入ることに決定しましたが、入学前約半年余り、松原小学校代用教員を勤めました。           個性のきらめき強いバンカラ先生は、生徒をしかりつけるときなどは恐ろしいほど猛烈でした。そのくせ生徒は誠三郎になつき、暇さえあれば子犬のように慕いまつわりました。誠三郎が一瞬でも、運動場へ姿を現そうものなら『山東先生!』と呼びかけながら、あっちの隅、こっちの隅から走り寄ってきました。 日曜日も誠三郎を取り巻きながら散歩する児童の一団が必ず見受けられました。                                                 慶応義塾大学に入ってから誠三郎は学問に励み、めきめき頭角を現しました。                      同時に飾らない素直な性格が、先輩からも推称されました。                              大正二年(1913)九月、紀州徳川家の世継ぎ頼貞公がイギリス留学の際、とも行く青年を求め、その春優秀な成績で慶応義塾大学を卒業した誠三郎を抜擢しました。                                      語学をマスターするため、頼貞公はケンブリッジ大学へ、誠三郎はロンドン大学に分かれて入り、政治経済を研究しましたが、戦争が激しくなり大正四年(1915)の冬に帰国しました。                             帰国後誠三郎は、人柄や考え、才能を認められ、徳川家の家職となり財務部に勤めることになりました。          大正八年(1919)十月、誠三郎はアメリカ・ワシントンで開催されたパリ講和会議の万国規約に基づく、第1回国際労働会議に同行し、すべての事務を任されました。                                     三年間のイギリス留学中に磨きをかけ熟練しきった語学で、日本の主張を貫き通すため、各国代表と話を進めました。    誠三郎がいかに活躍したかは言うまでもありません。その会議に成功し、帰国した誠三郎は名声をあげ、さらに大正十年(1921)海外渡航することとなりました。かくて三度の海外渡航に誠三郎のバンカラはどこかへ消え去って、すっかり英国風の紳士となりました。しかし、人に対する親切さは、昔と少しも変わりませんでした。                 頼倫公が薨去され、頼貞公の世になってからはますます信頼を厚くすることとなりました。                そして大正十一年(1922)徳川家財務部長となり、徳川家の事業を背負って立つこととなりました。          山東誠三郎について恩師薗和四郎氏(明治十八年より三十年の長い間、御坊小学校で教鞭をとって、その地の英才教育に携わった)は、こう語ったと言います。「小学生時代から、どこかしら普通の児童と変わっていましたね。私たちはよくあの子は今に偉くなるだろうと話し合ったものです。それに山東君ときたら、とびぬけた腕白ものでしてね。受け持ちの教師はずいぶんてこずりましたよ。覇気満々、気骨稜稜と言った風で、何か(学)級のために計るような場合などは教師だろうが、上級生だろうがまるで眼中にない、(同)級生を統率してぐんぐん所信を断行していくという調子だったですからね。           ところがああいう性格の持ち主ほど、かえって旧誼心とか友情とかが厚いようですね。 (慶應)義塾へ通っている頃も、  イギリス留学中も我々のような隠遁者へ絶えず安否を問うてくれて、彼ら(御坊三人組)の消息は同窓会でいつも話題の中心になる。今日の山東君は三浦男爵と共に徳川家を背負って立つ偉い身分になったが、小学校時代の級友たちが上京の度に山東君に世話になって、帰って来ると自分のところへ皆呼んで報告に来ますよ」 (大正十四年三月某日)

「御坊ゆかりの先人たち」から引用  

日本文学の重鎮  ーー大佛次郎ーー   

昭和の文豪として、大衆文学に空前絶後の人気を集めた大佛次郎。                            ペンネームの由来は鎌倉の大仏裏に住んでいたからだといわれますが、簡単な由来に反して「大佛」をダイブツと読まず「オサラギ」と読ませるところはさすがです。 作家たちの間では、大作家と呼ばれ、泉鏡花、谷崎純一郎らに続いて昭和の時代には大佛が、日本の文壇の特別席とされる地位に座った人物だと言われています。                      この日本を代表する作家・大佛次郎は、本名を野尻清彦といい、明治三十年(1897)十月九日、父政助四十七歳、母ギン四十歳の時に、三男二女の末っ子として横浜市に生まれました。                             父政助は、江戸時代に道成寺の山門の再建や本堂の修復などを手掛けた宮大工・仁兵衛の子孫にあたり、嘉永三年(1850)五月二十七日、紀伊国日高郡藤井村(現御坊市藤田町)で源兵衛の長男として生まれ、十九歳の時に明治維新を経験して、「狭い故郷を出て、広い世界で活躍したい」と、和歌山市の倉田塾(吹上神社の神主・倉田績の家塾)に入り、その後日本郵船に入社、勤勉実直な人でした。                                              息子である大佛次郎にとって父政助は、厳格で怖い存在だったらしいが、読書好きで若いころから狂歌を作っては「文芸倶楽部」に投稿し、何度か一位を受賞する腕前で、この文芸趣味が大佛や長兄の抱影(正英・文学者)、次兄の孝ら野尻家の兄弟に大きな影響を与えたようです。                                            また、昭和二十二年十二月に御坊を訪れた大佛は、道成寺にある先祖の墓に参り、先祖が大工であったことを知ると、    「私はそのことに秘かな誇りを感じた。私は小説を書いていて、言葉の大工である。木口を選び、自分でかんなやのみをかけて、この堂を普請したのと同じく、言葉をすぐって、あとに残るような仕事を、出来ればしたいと望んでいるのである」と  深い感慨を抱いたそうです。                                            この翌年に、大佛は当時としては国際的な現代小説『帰郷』を発表し、二十五年この作品で芸術院賞を受賞します。     第二次大戦の最中(昭和一八年~十九年)に同盟通信社の嘱託として東南アジアの視察に訪れた際、日本人の占領軍としての外地での誤った行為に衝撃を受けた体験を参考にして書かれた同作品は、軽率な植民地文化とアメリカ軍の占領政策批判を基調として、主人公の節度ある人間としての美しさが、汚れた風潮の中で読者に深い感銘を与え、イギリス、フランス、イタリア、中国語訳されて、日本文化を紹介することになりました。続いて、御坊市内の旅館でもペンをとったと言われる『旅路』、「宗方姉妹」また『パリ燃ゆ』、「天皇の世紀」など、次々と作家としての本領を発揮する作品を発表しました。  しかしながら、大佛次郎の活躍は大正一三年、その名を文壇にデビューさせた「隼の源次」さらに『鞍馬天狗』の娯楽時代小説に始まり、子供から大人まで多くの読者を長年にわたって楽しませてきたことです。                                                   登場人物の行為や言葉には、他人にかける慈しみや、すべての人を平等に重んじる心などヒューマニズムがあふれ、また大佛の人柄も感じられます。                                                正しいと思わないものには、どこまでも抵抗する意思と、人間的に卑しいことは自分に許すことが出来ない心を持つ大佛は、  小学五年の時に投稿した「二つの種子」にあらわした『勤勉と誠実』の生き方を通した人でした。               新聞小説作家としての人気も絶大で、十七のペンネームを使い分け、多い時には四紙にそれぞれの作品を連載。大正十五年の「照る日くもる日」から昭和四十二年の「天皇の世紀」まで、約五十年の作家活動で六十一編の作品を書きました。     優れた小説を発表し、日本の文学界の進展に努力した功績で昭和三十九年十一月に文化勲章を受章。            昭和四十八年(1973)転移性肝がんにより、七十五歳で永眠。                           その後、業績をたたえて「大佛次郎賞」が制定され、五十三年には横浜市の港が見える丘公園には「大佛次郎記念館」が開館されるなど、大佛の偉業は後世に長く伝えられています。                                 日本文学界の重鎮、大佛次郎は父政助を通して御坊人の血を引く、ゆかりの人物であることに誇りを持ちたいものです。

「御坊ゆかりの先人たち」から引用 

御坊市名誉市民第一号  --和田 勇ーー

御坊市制五十周年を迎えた平成十六年四月四日、故和田勇は、御坊市名誉市民第一号として顕彰されました。          また、和田が貫いた『超我の奉仕』の精神を継承していくため、御坊ロータリークラブが『和田勇賞』を創設しました。   和田は、明治四十年(1907)九月十八日、ワシントン州ベリングハムで、出稼ぎ漁夫としてカナダに渡った名田町祓井戸出身の父善兵衛と由良町津井出身の母玉枝の長男として生まれた日系二世です。                      四歳の時日本の祖父母のもとに預けられ、御坊・日高で幼年時代を過ごしました。                    九歳の時にアメリカに戻り、ハイスクールに通いながら働き、後にオークランドでマーケットを経営しました。       しかし太平洋戦争がはじまると、二つの祖国の間で胸を痛めながら百三十人の日系人を率いてユタ州に集団疎開し、厳しい自然と闘いながら協同農場を営みました。                                        戦後はロサンゼルスに移り、「ファーマー・フレッズ・マーケット」を十七店持つようになりました。           昭和二十四年(1949)敗戦後初めて日本が国際大会参加を許された全米水泳選手権大会では、和田は自宅を宿舎として提供し、選手団の食事や通訳等全ての面倒を見ました。                                  その結果、古橋・橋爪が世界新記録を樹立し、ほとんどの種目で日本が優勝し、「ジャップ」と呼ばれさげすまれていたのが、一夜にして『ジャパニーズ』になり、日本のみならず在留邦人にも勇気と誇りを与えたのです。              この大会が縁で、岸首相からオリンピック招致の親書を受けます。                           その時和田は雅子夫人にこう語りました。 「東京でオリンピックが開けるなら、店のことなどどうなってもええと思うとる。マサと二人で、中南米の関係者にお願いしたほうがええに決まっとるだろうが。東京でオリンピックやれば、日本は大きくジャンプできるのや。日本人に勇気と自信を持たせることが出来るやろう。中南米のIOC委員が東京に投票してくれるように全力を尽くさないかん。僕はそのことが僕に与えられた使命や思う。責務や思う。」                 そして四十日間に及ぶ中南米二人旅が始まるのです。和田は日系人としてただ一人の招致委員会委員を委嘱され、特命移動大使級の特権を与えられました。しかし費用を日本側が持ってくれるわけではありません。あくまで私費。和田の持ち出しでした。そして大変な強行日程で、時には二つのプロペラの一つがエンジントラブルで止まってしまうと言うアクシデントにも見舞われます。                                                   和田夫妻の熱意は中南米諸国のIOC委員を動かし、IOC総会の投票で日本が圧勝し、東京オリンピックが実現したのです。                                                         昭和三十九年(1964)十月十日、東京オリンピック開会宣言に、和田は涙がこぼれてなりませんでした。        「日本はこれで一等国になったのや。戦争で敗れて四等国になったが、ようやく立ち直った。日本人はみなよう頑張った」  東京オリンピックは、まさに和田が私財と命をかけて実現した戦後日本が復興・繁栄するための一大イベントだったのです。 その功績で東京都の名誉市民に選ばれています。                                   昭和四十四年(1969)にはロサンゼルス港湾委員となり、日本の大港湾に貿易協定を呼びかけ、日米貿易の促進に貢献し『日米の架け橋』とも呼ばれました。                                        晩年はパイオニアとしてアメリカで苦労を重ねた日系一世・二世が安心して住める場所を確保するため、三世・四世が失敗を恐れず思い切って仕事をやれるように、「日系人福祉財団」や日系引退者ホームの建設・運営のために奔走しました。     人のために我が身をささげた人物として『吉川英治文化賞』を受賞し、外国人としては異例の勲三等瑞宝章を授与されています。                                                       「僕は子供のころ、貧しい漁村で育ったんや。そこでは大人も子供も力を合わせ網を引く。水揚げが多かろうが少なかろうが、どこの家にも頭数に合わせて獲れた魚を分け合って暮らしていたんや』と言う『助け合って生きる』和田の貫いた『超我の奉仕の精神』の原点は、四歳から九歳までのわずか五年間の和歌山での生活にあったと言えるでしょう。            平成十三年(2001)二月十二日、和田勇は皆に惜しまれつつ九十三歳でこの世を去りました。             にこやかにほほ笑む遺影からは、和田が幼年時代和歌山で覚えた『淡海節』や『鴨緑江節』を口ずさみながら、ふるさと御坊・日高を思い浮かべているように思われました。                                    葬儀に出席した全米水泳選手権選手でオリンピック銀メダリストの浜口喜博(現水泳連盟顧問)から寄せられた、今まで知られていない和田勇のエピソードを一部紹介します。ここからも和田勇の人柄に触れてみてください。             全米選手権では、食うや食わずの時代に和田さんに腹いっぱいご馳走になった恩義を考えたら、お骨を拾わせていただくの当然です。自分の家以上にのびのびと過ごさせていただき、その翌年、二月~五月、ブラジルから招待され、その往き帰りにも当然のように泊めてもらいました。                                           また、大映(映画)に入ってからは【1956】ロケ地がサウザンドウオークと言うハリウッドの近くであり、一か月近い滞在中、休みの度にお邪魔をし時には友達を連れて行ってもメキシコ湾で釣ったマグロの冷凍を出して刺身にしてくれました。  これは和田さんが留守の時でも奥様の陣頭指揮で…。自分の家に帰るようにアポなしで、いつ訪ねても嫌な顔一つせず迎えてくれたこと、今思えばなかなかできないことだし、忘れることは出来ません。                       千九百七十六年のモントリオールオリンピックの後、競泳委員長をまかされた私は、監督としてモスクワオリンピックへ向けて強化に励んでいたが、残念ながらボイコット騒ぎで選手団まで編成しながら不参加となり、改めてまた次のロサンゼルスオリンピックへ向かうことになりました。                                         如何にすれば上位に入れるか、少しでも良い成績が残せるかに頭を悩ませ、一つの方法としてメキシコシテイでの高所トレーニング【高所トレーニングがいかに有利か、今では女子マラソンの人たちが証明してくれている】を選びました。       メキシコには縁故の深い和田さんに泣きつき、橋渡しをしていただき、ロサンゼルスオリンピックの年まで三年続けました。 いよいよオリンピックの年には直前合宿を一か月かけて現地で実施、最初の一週間は市長が和田さんと昵懇の方で日本びいきのガーデイナー市に紹介してくださり、日本チームのために市営プールを全面的に使わせてもらい、二週目はメキシコシテイ、三週目はクエルナバカ、四週目は再びメキシコシテイに戻って強化。そして直前にロスへ降りて選手村に入りオリンピックに参加しました。四週に分けた強化練習の度に和田さんには大変お世話をいただきました。日本の体協傘下の競技団体で和田さんのお世話にならない団体の方が少ないのではないかと思います。                               和田さんと言う人は、人によって態度を変えることなく、我々に対しても、どんなに偉い人に対しても常に同じ態度で当たられる。私も八十年近く生きてきて、いろんな人にお会いしてきたけど、和田さんのような人は知らない。あの人柄がなければ、東京オリンピックを誘致する大事業の一翼を担うような仕事は出来なかったと思えます。                  和田さんが御坊市名誉市民第一号として顕彰されたことは大変嬉しいことです。(ちょっと遅すぎとも思えますが…)和田さんはいくら顕彰しても過ぎることはないと思える人でした。                               和田さんの本を目にして、何かを感じ奮い立つ子がたくさんいることを祈るばかりです。

「御坊ゆかりの先人たち」から引用