亀山城跡は標高110mの亀山山上に位置し、湯川・丸山城と呼ばれた。

初代、湯川氏は武田三郎忠長で、甲斐武田氏の一族であるとされる。

忠長が甲斐から来て道湯川(田辺市中辺路町)に住み、この地の山賊を打ち取った功により六波羅探題より芳養の荘(田辺市)を治めるとが許された。芳養町内梅に居を構えて道湯川から湯川庄司父娘を迎えて、その娘お葉を正妻とし忠長はこのとき姓を湯川と改名した。

三代目、光春は統治拡大のため日高地方への進出を試みた。しかし日高地方の豪族の反発大のため光春は蛭ケ埼(湯川町丸山)に陣を構えた。周辺を抑えたのち亀山に本城を築いた。

室町時代の初期(南北朝時代)永享11年(1444)頃、三代目湯川光春によって本城として築かれ、以後、戦国時代にかけて有田・日高・牟婁郡主要部を支配した湯川一族の居城として歴史的に重要な位置を占めていた。

11代直光の時の天文18年(1549)亀山山頂の山城では風害があるので、山麓に大規模な館を築いて住居とした。この館を小松原館という。

その後、天正13年(1585)12代直春は、羽柴秀吉の紀州征伐に従わず、自ら城を焼いて叔父湯川教春の泊城に逃れて、廃城となった。

翼14年(1586)直春の一族は大和郡山城の秀吉の弟秀長を訪ねたが、秀長によって毒殺され、ここに湯川氏は滅んだ。

城は本丸・二の丸を初め大小28郭からなり、本丸には2~3mの土塁が巡らされていた。城址には土塁の一部と古井戸を残すのみとなっている。