今回、日高別院を紹介するにあたり、本尊の写真を撮影させて頂きました。そこで初めて知りましたが、何と、本尊には戦乱の当時の弓矢による傷跡が残っているのです。太閤秀吉に攻められた時には本尊を守って熊野に逃れ、当地に戻るやいなや、他寺に略奪されるという災難を経て、現在も安置される本尊。

 享禄元年(1528年)、摂津の国、江口で三好長慶に敗れた亀山城主である湯川直光公(湯川家第十一代目)は、山科本願寺の宗主である証如上人の助けを借りて小松原館に帰還できました。
この恩に報いるため天文元年(1532年)、現在の美浜町吉原に一宇を建立し、次男の湯川信春を出家させ、後に証如上人から「吉原坊舎」の号を許されたそうです。
 しかしながら、天正十三年(1585年)、太閤秀吉の陸海からの進攻によって亀山城や吉原坊舎は焼かれ、湯川一族は本尊を持って熊野に逃れたそうですが、翌年、戦火も収まったことで当地に帰り、薗浦椿原に仮堂「薗坊舎」を建てました。

 当地にご本尊が戻ったその頃、突如、本尊が他寺に襲われるという事件が起こったそうです。その時、篤信な糸田久左ヱ門が乗り込んで奪出して帰る途中、追手に襲われ流矢が胸に当たりました。とっさに胸を押さえたのですが何の傷もなかったことから急いで坊舎に帰り、ご本尊を壇上に安置したところ、実はご本尊の胸に矢が立っていたのです。その痕は今も伺うことが出来ます。

 その後十年を経た文禄四年(1595年)、鷲森の有力者であった佐竹伊賀守の尽力により薗浦と島村の荒地を開き、ここに「薗坊舎」移し、「日高坊舎」を建立しました。これが現在の「日高別院」で、近隣の住民は高く聳える寺院を御坊様と尊崇したことから、地名を「御坊」と呼ばれるようになり、現在の「御坊市」の起源となっています。

 その頃から坊舎本堂の南余間に開基直光の肖像をかかげ、五月二十日の祥月命日には一座の法要を営み今日におよんでいます。それより三十六年後、寛永七年(一六三〇)本山より奉行の使いがあって本堂の改築再建がなされました。

 日高別院の本堂は、文政八年(1,825年)三月十五日に建立されたものですが、様式は本山にならって総けやき造り、鐘楼と太鼓楼を左右に備え、本堂、書院、庫裡(こぐり)、経蔵、茶所、火番居所など、七堂伽藍(がらん)を配しています。明治十年(1877年)九月には、本山より別院の称号を受け、現在に及んでいるそうです。

 下川(したがわ)に囲まれた日高別院を中心に町並みを形成し、西町・中町・東町に分かれ、特に東町は、現在でも土蔵屋敷が多く残る近世の町並みを残しています。
*本稿については、日高別院東門横に記載されている説明文ならびにwikipediaを引用し、編集させて頂きました。