ここでは、中坊と橘坊の跡 について紹介します。

在所:京都府八幡八幡高坊

【ポイント】

 

【関連写真】

 中坊と椿坊の跡2019_12_04 金只   中坊跡付近の表参道2019_12_04 金只   

 案内板(中坊と椿坊の跡)2019_12_04 金只   案内板の切出(中坊の中門跡)2019_12_08 金只   

 案内板の切出(慶應4年作の本社と中谷)2019_12_08 金只   案内板の切出(小侍従の墓)2019_12_08 金只   

【補足説明】

①.現地案内板より

 神仏習合の宮寺・石清水八幡宮では、江戸時代まで山内に数々の坊があり、「男山四十八坊」と呼ばれました。

 この周辺は「中谷」といわれ、現在の社務所周辺まで、所狭しと坊が建てられていました。明治のはじめに神仏分離令によって取り除かれ、現在は石垣を残すだけですが、詳細な絵図がのこされており、坊の名前もわかっています。四角い切石が積み上げられたのは、「中坊」の門があった場所です。中坊は平安時代中期にはすでに記録があり、鎌倉時代以降に増える石清水八幡宮の坊の中でも古くからありました。

 現在の社務所のあたりにあった「椿坊」には、平安時代末期の女流歌人で有名な小侍従が住んでいたといわれています。小侍従の父は石清水八幡宮第25代別当の光春、姉妹は鳥羽天皇に嫁ぎ、八幡市の地名・美濃山の由来として語られる美濃局。「待つ宵に 更けゆく鐘の声聞けば あかね別れの取りはものかは」の和歌は小侍従の代表作です。

【参考情報】

インターネット:男山四十八坊