ここでは、久貝正俊墓所 について紹介します。

在所:堂山東町8-5

【ポイント】

①.この墓所は、天明2年(1782)に中宮村から正俊寺が取得。

【関連写真】

 雑草に覆われた墓所2018_08_19 金只   久貝正俊の墓2018_08_19 金只   中央に建てられた五輪塔2018_08_19 金只   

【補足説明】

①.久貝氏の出目

 久貝氏は、『尊卑分脈』によれば藤原氏北家の魚名の末裔である藤原時兼が、寛平年間(887-897)に山城国乙訓群を受領し、久貝村(京都府長岡京市久貝)に住まいしたことに始まる。

 弘治3年(1557)に正俊の父、久貝正勝が遠江に移り住み今川義元の家臣となる。今川氏真の代に今川家が衰えると松平元康(徳川家康)の麾下に入り、本多忠勝に属した。三方原の役で戦功を挙げ、大番組頭となる。天正15年(1588)年に没する。

 ②.初代正俊の一生

天正 元年(1573)  久貝正俊生誕

天正 9年(1581)  徳川家康に拝謁、秀忠の小姓となる

慶長 5年(1600)  秀忠とともに上田城攻略に赴く。

           秀忠と意見が合わず処罰され陣を抜け出し関が原の戦いに望み伊井直正に従う。

           戦後、直正の取り成しもあり罪を許される

慶長10年(1605)  徒頭となる

慶長14年(1609)  米子藩改易に際し、目付けとして赴く

           その折の不手際により大久保長安事件の際に一時、勘気を被る

慶長19年(1605)  大阪冬の陣で使番を務める

慶長20年(1606)  大阪夏の陣で使番を務める

元和 2年(1616)  目付になる

元和 5年(1619)  大阪東町奉行となる

           武蔵の所領に加え河内に1500石を与えられ所領3000石となる

           河内の所領は、倉治・津田・藤阪・杉・片鉾・田口・中野・北条・蔀屋・清滝・逢坂

           尚、津田は石高1067石の内、933石

寛永 2年(1625)  従五位下因幡守に叙任される

寛永10年(1633)  河内国讃良郡2000石加増により所領5000石となる

寛永11年(1634)  家光上洛に際し、供奉する

寛永14年(1637)  島原の乱に際し、大阪より小倉に廻船の指示を出す

寛永20年(1643)  家臣細谷善兵衛に八田広の開発を命じる

正保 5年(1648)  2月2日76歳で死亡。

           墓は枚方市堂山東町、東京都豊島区巣鴨の台泉寺に供養等

③.この墓所は、天明2年(1782)に中宮村から正俊寺が取得。

【参考情報】

Wikipedia:久貝正俊