ここでは、古くて新しい町楠葉 について紹介します。
在所:枚方市楠葉地区
【ポイント】
①.現代の楠葉
公団:八幡市の丘陵地帯、開発面積が186万m2で、計画人口は約3万人
京阪:枚方市の楠葉地区、開発面積が110万m2、
八幡市の橋本地区、開発面積が 26万m2、
合計約136万m2、 計画人口約19万7千人
②.近代の楠葉・・・楠葉台場
③.古代の楠葉・・・樟葉宮、楠葉渡し、楠葉駅、官馬の飼育地、楠葉の関、中之芝遺跡・楠葉遺跡群
⑤.樟葉駅前モニュメント・・・土器作りと『梁塵秘抄』
【補足説明】
①.現代の楠葉・・・ローズタウン計画
-1).開発の経緯
昭和30年代の楠葉は、町楠葉、南楠葉、楠葉野田をあわせ240戸ほどの農村であった。
樟葉駅は京阪本線で利用数が最小の小さな駅でセンチュリータウン付近は、葦が生えていた。
今の駅前、並木、花園あたりは「ドタ」と呼ばれた湿田で田船が必要であった。
・昭和43年、京阪電鉄によって沼地と湿田を造成し宅地化(ローズタウン)された。
・住宅公団との共同開発条件
ア).丘陵地帯までのバス路線乗り入れ
イ).駅勢圏人口9万人の駅施設の整備
駅舎は、空き地の多い南300mに移動
ウ).広域型のショッピングセンターの建設
リニューアルは、平成17年に完成
エ).地域社会への奉仕としての施設整備
・体育文化センターの建設 ・幹線道路は幅30m 細街路を8mで整備
・下水道は分流方式を採用 ・公園の整備14箇所
オ).排水設備の整備
-2).くずはタワーは(地上41階 133.8m)は、平成15年完成。
-3).樟葉と楠葉 明治22年楠葉村と船橋村が合併し樟葉村となる。
後に枚方町に合併し樟葉村の名称が消えたが、駅名と小学校名に樟葉が残る。
-4).地名由来
『古事記』の崇神天皇の段に楠葉の地名の由来が載っている。山城の建波邇安王(タケハニヤスオウ)の反乱に対して討伐軍として、天皇は、日子国夫玖命(ヒコクニブクノミヒト)を派遣した。国夫玖命の射た矢が建波邇安王に命中し、反乱軍が逃げ出した。討伐軍はこれを追って「久須婆(クスバ)」の渡しに追いつめた。逃げ場を失った兵士達は恐怖の余り糞を漏らして袴を汚してしまった。そのためここは「糞袴(クソハカマ))」と名付 けられたが現在は「久須婆」と呼ぶと書かれている。
一方、『日本書紀』には『糞袴』が現在訛って『楠葉』になったとする。
-5).駅前モニュメント
・「梁塵秘抄」に次のような歌が収録されている。
楠葉の御牧(ミマキ)の土器造り
土器は造れど女(ムスメ)の貌(カホ)ぞよき あな美しやな
あれを三車の四車の愛行輦に打ち載せて
受領の北の方と言わせばや
※ 梁塵秘抄第2巻、四旬神歌の中、376番に収録 駅前モニュメント
※ 「梁塵秘抄」は、平安時代末期に後白河法皇によって編集されたものです。
当時、巷で詠われていた雑芸の歌を洗いざらい集めたもので、歌の大部分は、当世風と云う「今様」
である。
※ 「梁塵」とは、建物の棟木に積もった細かい塵のことで、中国の古い書物に「美しい歌声の響きが
棟木に積もった塵を動かす」と云われたことから、美しい歌い方の秘伝を語ったものだそうです。
②.近代の楠葉
-1).江戸時代にも西国街道、京街道を結ぶ重要地
-2).京都守護のための砲台設置・・・国指定史跡公園に(2015年度完成)
③.古代の楠葉
-1).継体天皇即位の地(日本書紀)・・・大阪府指定史跡。
-2).西国道・南海道を結ぶ要所であった。
-3).楠葉渡し(高浜渡し)、楠葉駅は、古事記によると奈良時代に設置された。文献上は「古事記」の崇神天皇の段に見える久須婆渡が初見。
楠葉渡しは古くから重要な渡しであり、枚方大橋が完成した後、昭和20年代まで運行されていた。
和銅4年(711)に楠葉の駅が設置され、大宰府への山陽道には、平城京から木津川沿いに楠葉に出て、楠葉渡しで大原に出た。
-4).官馬の飼育地(楠葉の御牧(ミマキ))であった。淀川の向いは上牧(カンマキ)、淀川の両岸が馬の放牧地
-5).楠葉の関
『太平記』に建武の新政開始にあたって後醍醐天皇(1318-1319)が関所を廃止した時に「大津・楠葉」は対象外としたとの記述あり。
暦応3年/興国元年(1340)には、北朝光厳上皇の院宣によって同関が春日社造営料所に充てられ、実質的には同社を支配していた奈良興福寺の支配下に置かれていた。
文明年間(1469-1487)には、興福寺大乗院が楠葉関より年間1,100貫の関銭収入を得ていたとある。
-6.中之芝遺跡・楠葉遺跡群
・古代より瓦や土器の生産地、大阪・四天王寺の瓦もここ楠葉で焼かれた云われ、窯場跡が点在する。
・楠葉は土器作りに適した良質の土に恵まれ、運搬手段としての舟運の利用も可能で且つ、京・奈良・大坂の中間点に位置したことから、土器の生産が盛んになったものと思われる。
律令制のもとで宮中に属する土器生産者集団がいて、土鍋や瓦器碗(がきわん)が生産されていた。平安時代には内膳司領楠葉御園(ナイゼンシリョウクズハミソノ)に引継がれ、内膳司に貢進する土器が造られていた。
平安時代後期以降に成立した短編物賀語集『堤中納言物語』にも「楠葉の御牧につくるなる河内鍋」とある。
【参考情報】
インターネット:京阪電気鉄道のまちづくり~くずはローズタウンを中心に~
Wikipedia:梁塵秘抄