ここでは、御茶屋御殿跡 について紹介します。

在所:枚方元町1・・・万年寺山中腹台地

【ポイント】
①.御茶屋御殿の建設時期は、文禄4年(1595)。

②.家臣の枚方城主本多内善正康の娘「乙御前」を住まわしたと云われている。

③.この地点は、遠くには大阪から伏見までを遠望でき、対岸には西国街道も眺めることができる軍事上の要所であった。

④.延宝7年(1679)7月1日に起った火事によって新築御殿もろとも全焼

⑤.この広場は平成17年度に枚方市がNTTから土地を借用し、枚方信用金庫から寄付を受け阿妻屋風休憩所を設け茶屋御殿展望広場として整備した。

⑥.街角美術館御茶屋御殿からの眺め)が設置されていて、現在の眺望と比較できる。

⑦.展望広場整備工事で「石棺」が出土。

【関連写真】

  案内版2013_04_13 金只   御茶屋御殿広場2012_07_08 金只

【補足説明】

①.観光案内板より

 京・大阪間を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が御茶屋御殿を建てたのは文禄3年(1596)のことです。三矢村に残る記録から秀吉が「御茶屋」を当地に建てたことが確認できます。伝承では、秀吉の家臣である枚方城主本多内善正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも言われています。

 京都伏見と大阪に拠点を置いた秀吉は、この間しばしば行き来していました。中間にあたる、ここ枚方の地にも立ち寄ったことでしょう。文禄5年(1596)の淀川堤防修築に際しては、対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌で眺めたとの話も残っています。

 江戸時代に入ると、御茶屋御殿は幕府公用の施設となりました。元和9年(1623)には2代将軍徳川秀忠が、寛永9年(1626)には3代将軍家光が逗留したと記録に残されています。家光来訪の際には、秀吉が建てた「台茶殿」の脇に桁行5間、梁行3間の御殿が新築されました。「河内鑑名所記」には、桧皮葺と思われる三棟の建物が描かれている。

 その後は利用されることもなく、「大茶殿」は承応3年(1654)老朽化により解体され、新築御殿がその用材の収納庫にあてられていました。しかし、延宝7年(1679)7月1日に起った火事によって新築御殿もろとも全焼し、以後再建されることはありませんでした。

②.南場氏の資料より

 平成17年12月展望広場休憩所設置工事開始、平成18年3月4日完成オープン。

 この展望広場造成は、当時の中司市長とボランテイアガイドとの懇談会でガイドから要望したもので、以前はNTT用地で金網の柵があり草ぼうぼうの荒れ地だった。

 市は枚方信用金庫から寄付(土地は民間公益法人NTTで無料借地とのこと)を受け、ここに東屋風休憩所を設け茶屋御殿展望広場として平成18年3月4日オープンした。

 ここに御殿を建て枚方城主 本多内膳正政康の娘 乙(オト)御前を住まわせ、京の行き帰りに立ち寄ったという。

 乙御前は、容色端麗・諸芸に通じた才女であった。

 大坂夏の陣(1615)で豊臣家が滅亡すると枚方城は廃止されたが、茶屋御殿は残り、江戸時代は幕府の公用施設となった。

 徳川2代将軍秀忠、また3代将軍家光が在京中に訪れたことが三矢村の資料に記されている。また、西国大名の休泊する本陣としても使用された。この御殿は延宝7年(1679)の枚方宿の大火で類焼してしまった。(一説に焼けたのは小屋で建物は老朽化でその前に壊されていた。ひらり12号)焼失の直前に刊行された「河内鑑名所記」には、桧皮葺と思われる三棟の建物が描かれている。記録によるとこの三棟は、秀吉の御茶屋御殿は老朽化が進んだため取り壊されて、後に徳川家光の時に新しく建てられたそうである。今はその痕跡はなにもない。

 茶屋御殿跡に休憩所設置工事に先立ち、埋蔵物調査をしたところ、組合せ式箱形石棺(170cmの男性4世紀代のもの?)が出土した。

 また、上半部が欠落した板状の石塔(元亀二年(1571)九月十一日蓮華経と判読される)が出土した。その他の出土品(白磁皿、軒平瓦、軒丸瓦、元祐通宝、香炉、土玉、土師皿、砥石)などが出土し、茶屋御殿以前の万年寺または枚方寺内町との関わりがあるのか今後の調査がまたれる。(まんだ85号17.12)

※ 秘話  御殿で茶会を催したとき、度々一乗寺の住職を招待したため、秀吉に仲を疑われた。住職は潔白を証明するため自分の男根を切り自殺した。秀吉の死後、乙御前は髪を切り住職を弔ったという秘話が残っている。

 乙御前悲話(大阪府全志より)萬年寺山は東南にあり、其の名は萬年寺のありしに依る。同山の南部には俗に御殿山と呼び、天正年間豊臣秀吉の御茶屋御殿を設けし所なりと傳ふ。大字岡 一乗寺の記録に依れば、當時此の御茶屋御殿は其の愛妾乙御前の住せし所なり。乙御前は枚方城主本多内膳正政康の女にして、芳紀正に二十、容色端麗にして禮式に精通しけるが、一乗寺の光譽上人を招請してしばしば茶の湯を供しければ、秀吉は上人の同女と醜交あるかを疑ひしより、上人は其の無實に憤恨して自殺せしかば、乙御前は之を憫み、其の被着せる裲襠を以て佛前の打敷を作りて、同上人の為めに之を同寺に寄付し、豊公薨去の後は剃髪して尼となり、薬師庵に終れりといふ。