ここでは、明治天皇昼餐所跡 について紹介します。

在所:三矢町6

【ポイント】

①.明治天皇大阪行幸日程

  慶応3年10月 徳川幕府大政奉還

  慶応4年(明治元年)

    1月02日 鳥羽・伏見の戦い

    3月14日 江戸城明け渡し

    3月20日 京都御所を出発

    3月22日 枚方本陣で御昼食

        守口宿盛泉寺宿泊

②.このまま大阪城に入場されていたら、大阪が首都となったのでは?と残念がる声も!

【関連写真】

 三矢公園入口の碑2013_03_13 金只​   記念碑2013_03_13 金只   

 【補足説明】
①.明治天皇の大坂行幸
 慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見での敗北によって幕府の影響力は衰えます。すかさず3月に、明治新政府は天皇親政をアピールするため、明示天皇の大阪行幸を企てます。そのとき枚方宿本陣は、天皇の休憩所にあてられました。戦前に建てられた記念碑が現在も残されています。
 明治天皇は、京都を慶応4年(1868)3月21日に出発し、石清水八幡宮で1泊。翌22日枚方宿で昼食を摂られ守口に宿泊された。
 大坂が完全に新政府の支配下に入ったことを示すため、天皇はものものしい従者を従え鳳輦(ホウレン)に乗り枚方を通過された。帰りは八軒家から船で京都に還行(カンコウ)された。
②.昭和11年(1936年)枚方町が建立した。

③.維新の時系列的展開

  慶応3年10月 徳川幕府大政奉還

  慶応4年(明治元年)

    1月02日 鳥羽・伏見の戦い

    3月14日 江戸城明け渡しで合意

    3月20日 京都御所を出発

    3月22日 枚方本陣で御昼食

        守口宿盛泉寺宿泊

    4月11日 江戸無血開城

    9月08日 明治と改元

④.守口市盛泉寺の門前説明板由来書一部抜粋

 慶応3年十月、徳川幕府大政奉還。参与大久保利通は人心を一新するため大阪遷都の急務を進言。副総裁岩倉具視は公卿が異議を唱える事は必然と考え、表向きは大阪親征の行事として密かに、遷都の意思を持った行幸なので、三種の神器の一、天照大神の御霊代八咫の鏡を連なって行幸。

 明治天皇大阪行幸されたおり、当寺本堂前に賢所を奉安された由緒がある(4月11日江戸無血開城が実現大阪遷都論はまぼろしと化し一転して江戸遷都となった)。