ここでは、泉坊跡(松花堂跡) について紹介します。

在所:京都府八幡市八幡高坊

【ポイント】

①.松花堂昭乗が瀧本坊の住職を引退して晩年を過ごした宿坊。

②.松花堂昭乗は、泉坊の中段の書院の奥に松花堂と呼ばせた茶室を建てさせた。

③.明治に入って、書院と茶室は松花堂庭園に移築されたが、昭和32年(1957)にこの地も移築先も国の史跡に指定された。

【関連写真】

 泉坊跡(松花堂跡)入口2019_12_16 金只   標柱(史跡松花堂跡)2019_12_16 金只   

 泉坊跡案内板2019_12_16 金只   案内板(泉坊跡)2019_12_16 金只   

 泉坊跡配置図(案内板より)   

【補足説明】

①.現地案内板よりー1・・・泉坊入口

 史跡松花堂およびその跡 昭和31年7月1日指定

 石清水八幡宮の鎮座する男山には、「男山四十八坊」と総称されるほど数多くの宿坊が立ち並んでいた。この地は、これらの宿坊の一つ泉坊で、江戸時代初期、松花堂昭乗(1582~1639)が、その晩年に一宇の庵(松花堂)を結んだことで有名である。石清水八幡宮の社僧であった昭乗は高名な茶人・画家であるとともに寛永の三筆にも数えられ、小堀遠州などとも親交のあった当代一流の文化人であった。

 明治の廃仏毀釈で、石清水八幡宮の宿坊はほとんど退転したが、泉坊書院の一部や松花堂(茶室)は八幡市女郎花へ移築され、移築先とその跡は、昭和32年7月匡の史跡に指定された。

 石清水八幡宮では、雑木林化していたその跡の史跡公園化を計画し、昭和57年度より文化庁の補助金を得て、奈良国立文化財研究所、京都文化財保護課の指導の下に、発掘調査ならびに環境整備を行った。

 発掘調査では、史跡に指定されている三段の平坦面のうち南2段が泉坊跡であることが判明し、松花堂(茶室)はその痕跡を推定するにすぎなかったが、かなりよく残った平地庭と二棟の建物跡等を検出した。また指定地の南に隣接する平坦面より、堀跡、建物一棟を絵kんしゅつした。環境整備は、残りのよい露地庭を露出展示し、建物跡等は平面表示した。

   昭和60年3月       石清水八幡宮

②.現地案内板よりー2・・・中段入口

 今から約400年前の江戸時代初期、「寛永の三筆」の一人で、当代一の文化人であった僧侶・松花堂昭乗がこの坊で晩年を過ごしました。昭乗は石清水社の隣の「瀧本坊」の住職でしたが、引退したのち泉坊に庵を建て、「松花堂」と名付けました。

 明治時代の神仏分離令で、男山からすべての坊が撤去されることとなり、今ではここから約2km南にある「松花堂庭園」に、草庵松花堂と書院が移築されました。昭和32年(1957)にはこの地と移転先の2カ所が「松花堂およびその跡」として国の史跡指定を受け、昭和57・58年(1982~1983)には整備のための発掘調査が行われました。

 草庵・松花堂の手前で発掘された庭(露地)の遺構は、昭乗亡きあと江戸時代後期に作り直されたものですが、絵図にぴたりと一致するもので、現地に露出展示されています。

③.現地案内板ー3・・・松花堂遺構横

 この説明板の東が松花堂(茶室)の平面表示である。松花堂(茶室)跡は、後世の削平が著しく、発掘調査ではその痕跡を推定するにすぎなかったが、「八幡泉坊松花堂真図」(東京国立博物館蔵)をもとに建物の位置、間切りを入れ、内部の色合いの違いで、畳敷、土間、板間の区別を表している。

 説明板西の囲いの中が中露地主要部で、発掘調査によって検出された遺構を特殊樹脂加工して露出展示している。この中露地の切石延段、ツクバイ跡、雪隠などは、「八幡泉坊松花堂真図」の記載と非常に良く合致しており、きわめて珍しい遺構である。

 なお、この中露地から西方の入口部分に延びる〇こぼし延段は、一部検出遺構をもとに復元したもので、その南のサザンカ列は、松花堂真図」記された竹垣を表現したものである。

 樹脂加工地西の建物表示は、発掘調査で検出された3間✖四間の建物跡である。

   昭和60年3月   石清水八幡宮

【参考情報】