ここでは、禁野火薬庫爆発事故 について紹介します

①.1回目:明治42年8月20日午前2時過ぎ、第2倉庫が爆発

  原因;猛暑による自然発火とされている。

  被害;軽傷10人、大破家屋約25戸、小破家屋1470戸。

②.2回目;昭和14年(1939)3月1日午後2時45分第15倉庫で爆発。

  ・・・誘爆を起こし3日正午頃終熄(シュウソク)

 ・原因;信管を外す作業中の事故

 ・被害;死者94名+4+?・・・最初の火災時に駆けつけた消防団員・工場関係者の大部分が殉職。

     負傷者602名、家屋の全半壊821戸、被災世帯4,425世帯

 ・状況 爆発の原因は、上海から返送されてきた旧式の砲弾を新式に作り替えるために信管を外す作業していた時に事故を起こし発火した。

 職員は異常に気づき、枚方製造所や枚方町消防団に支援を求め、消化に努めたが午後3時29分には、填薬弾(テンヤクダン)に引火し、大爆発を起こした。

 誘発が続き、午後7時までに計29回の爆発を繰り返した。

 炸裂した弾丸の破片は周囲2kmに飛び散る大惨事となった。

 ・・・淀川を飛び越えて大塚まで破片が飛散したとの記録もある

 火災は3日正午頃漸く収まり、4日に完全鎮火、5日になってやっと被災地の住民の帰宅が許された。

 報告書以外に死者4名が確認されており、被害はこの数字を上回る規模であったと想像される。

住民の避難

 津田の尊光寺・枚方小学校・成田不動尊・寝屋川女学校・聖母女学院・大阪市内の大阪市旭区・都島区の小学校・国技館・知人宅・親戚宅など。

 集団避難場所には毛布やおにぎり・ロウソクなどを配布。

 住民の自宅への帰宅は3月5日午後1時から許可。

 全国から30万円の義損金(当時公務員初日給80円、はがき2銭)

 戦争激化で大坂陸軍工廠との間に専用鉄道を敷設・・・現学研都市線

戦後の跡地利用・・・平和利用

  -1.火薬庫跡地

 ・昭和21年;工員を戦災者の一時使用開始。

 ・昭和22年;大阪大学工学部枚方学舎・香里小学校・枚方中学校に転用

 ・昭和24年;枚方市立伝染病棟開設。

 ・昭和29年;市民病院開設。

 ・昭和30年;公務員宿舎3棟建設。

 ・昭和31年;中宮第一団地・第二団地建設。

 ・昭和44年;中宮第三団地・第四団地建設。

  -2.軍用鉄道跡地

 ・百済寺南から北は平和ロードとして整備。

 ・百済寺南から津田駅ランは、国道として整備。