ここでは、禁野車塚古墳 について紹介します。

【ポイント】

在所 枚方市宮之坂5丁目381番3他
種別 国指定文化財 記念物 史跡
指定 昭和47年3月22日、平成19年7月26日追加指定
所有 枚方市

①.国の史跡指定1972年(昭和47)

 ・形状:前方後円墳

 ・規模:全長120m 、後円部63m、前方部巾55m、円部の高さ9.9m

②.築造時期:3世紀末~4世紀初

③.特記事項          

 前方部が三味線のばち形等の特徴から、卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳(奈良県桜井市)の相似墳(埋葬者は密接な同盟者)と判断史跡表示された。

(平成20年12月 枚方市文化財研究調査会発表)

※その他の共通点

・丘陵を利用せず平地に盛り土をしている。

・使用されている石材が芝山産(柏原市)である。

【関連写真】

 禁野車塚古墳航空写真(文化財研究財団)​   禁野車塚古墳(前方部から全景)2012_04_05 金只​   

 天野川堤防より2016_12_03 金只​   天野川河川の祭礼用施設 2016_12_03 金只​   

 禁野車塚古墳解説板2016_12_03 金只​   禁野車塚古墳復元図2016_12_03 金只​   

 文化財説明板2012_04_05 金只​   

 【補足説明】                      

①.禁野車塚古墳解説板より

 全長100mの前方後円墳で、牧野車塚古墳とともに枚方市内では屈指の大型古墳です。後円部の直径57mあり、前方部を西に向けています。前方部はかなり削られていますが、後円部は2段築成された様子が観察でき、葺石(ふきいし)と埴輪の存在も認められます。

 内部構造や副葬品などについてはあきらかではありませんが、後円部上に板石が存在することから、主体部は竪穴式石室である可能性があります。

 したがってこの古墳が築造された時期は、予想される主体部と墳丘の状態から4世紀末~5世紀初頭頃と推定できます。この地域が淀川と天野川の合流点を望むという良好な立地条件から、この地域の交通権を掌握した首長の墓と考えられます。       2002年文化庁、大阪府教育委員会、枚方市教育委員会

②.文化財説明板

 禁野車塚古墳は、天野川右岸の低位段丘上に築造された前方部を西に向けた前方後円部です。

 1966年に墳丘測量、1970年に範囲確認調査が実施され、埋葬施設は不明ながら、その規模は

   全長110m、後円部計57m

   同高9.9m、前方部幅40m

と、北河内屈指であり、4世紀中ころの築造と推定され、天野川水系の古墳時代を考える上で不可欠の古墳として1972年に現状の墳 墳丘測量図(2008年作成)と復元イメージ丘部が国史跡に指定されました。

 2006年前方後円部南東側(現在地)で範囲確認調査が実施され、現地表下2.6mにおいて後円部墳丘裾を検出することができ、後円部径が60m前後と、従来考えていたよりも大型になることが判明し、2007年に古墳南側の既存の公園部分と合わせて史跡の追加指定を受けました。

 そして2008年の再測量調査の結果、全長120m、後円部径63m、前方部幅55mという規模の復元案が提示されるようになりました。

 また倒卵形気味の後円部に撥形(ばちがた)の前方部が取付き、後円部から前方部に至るスロープも明瞭であるという墳形の特徴が奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)等に類似し、築造時期も4世紀初頭以前に遡る可能性が浮上するに至っています。

 このように禁野車塚古墳は、大阪府内でも数少ない、最古クラスの前方後円墳であり、淀川左岸の古墳時代のはじまりを解明する上でも重要な古墳ということができます。                                                 2008年12月枚方市教育委員会

【参考情報】

Wikipedia: 車塚古墳