ここでは、第4師団忠魂之碑 について紹介します。

在所:意賀美神社社務所横

【ポイント】

①.阪第4師団が日露戦争(明治37~38)での戦没者慰霊のために建立したもの。

②.日清戦争の時に、今日も負けたか8連隊という俗謡が残っている。

③.忠魂之碑は、周辺を砲弾でかこまれている。

  第4師団忠魂之碑2012_07_08 金只

【補足説明】

  今日も負けたか8連隊という俗謡が残っている大阪第師団が日露戦争(明治37~38)での戦没者慰霊のために建立したもの。第師団長中将菱刈隆(18代師団長)の銘がある。建立時期は砲身の裏に張り付けてあったがいつしか剥離して不明。

 師団長の在任期昭和2年8月~昭和3年8月から判断して昭和4年頃のものと思われる。制作は大阪工廠で造られたとのことで、野砲をかたどっているとのことであるが、海軍の人は細いから艦砲ではないかと。戦時供出を免れたのは取り外して地中に隠したからとか。現在も枚方遺族会の方が献花にこられるのは昭和期の戦没者も合祀しているからとのことである。(神社宮司談)

 第4師団のゴーストップ事件て知ってますか=昭和8年6月、天六交差点で信号無視して横断しようとした第8連隊の兵士を巡査が注意したことによる事件。今で言う有事か有事でないか、軍隊と警察の双方がメンツをもって争い総理を巻き込む大事件となった。結果は寺内寿一師団長と粟屋仙吉府警本部長(後広島市長原爆で死去)の握手で丸く収まった。