ここでは、織物神社 (織姫の宮、織物の宮)について紹介します。

在所:交野市倉治一丁目1-7

【ポイント】

①.七夕伝説に基づく観音寺山公園の牽牛石との関連で枚方市との関係ある神社

 ※ 2007年全国七夕サミットを両所で開催

②.創建年代不明。社伝によると文明8年(1476)3月に神祇管僚。

③.元亀3年(1572)に織田信長の軍勢狼藉陣取放火寄宿禁制があったと云ふ。

④.天正元年(1573)11月信長は神境を東西260間南北67間余に定められ且つ神職16人の席次も定められた。

⑤.天正10(1582)年6月に明智光秀は武運長久を祈願して、初穂料白銀百枚を奉納された記録。

⑥.天正11(1583)7月、豊臣秀吉は信長の先例に倣って制札を建てる。

⑦、天正16(1587)年4月より永く神餅料として蔵出米一千俵を豊臣秀吉が奉納した記録。

⑧.昭和49年5月四脚本殿覆並拝殿を昔の由緒ある姿を残し新築銅版葺に改築。

【関連写真】

 表参道入口2014_01_04 金只   表参道と一の鳥居2014_01_04 金只   

 表参道沿いお保存樹林2014_01_04 金只   標識(指定樹林)2014_01_04 金只   

 神社境内入口2014_01_04 金只   北側の門跡2014_01_04 金只   

 社務所お手水所2014_01_04 金只   本殿2014_01_04 金只   

 神社由緒書き2014_01_04 金只   修復記念碑2014_01_04 金只   

 裏参道口2014_01_04 金只   裏参道2014_01_04 金只   

 紀貫之の歌碑2014_01_04 金只   歌碑の説明文2014_01_04 金只   

 七夕サミット記念碑2014_01_04 金只   七夕サミット記念碑裏書2014_01_04 金只   

【補足説明】

①.現地説明版より

祭神:大柵織比売大神(アメタナハタオオカミ)

   栲機千々比売大神(タクハタチジヒメノミコト)

   地代主大神(トコシロヌシノオオカミ)

   八重事代主大神(ヤエコトシロオオカミ)

 当神社の創建の年代は詳らかでないが社伝によると文明8年(1476)3月に神祇管僚であった。卜部兼倶奉幣があり、元亀3年(1572)に織田信長の軍勢狼藉陣取放火寄宿禁制があったと云ふ。天正元年(1573)11月信長は神境を東西260間南北67間余に定められ且つ神職16人の席次も定められた。天正10(1582)年6月に明智光秀は武運長久を祈願して、初穂料白銀百枚を奉納された記録がある。翌(1583)7月には豊臣秀吉は信長の先例に倣って制札を建て同16(1587)年4月より永く神餅料として蔵出米一千俵を奉納された記録も残っている。実に昔から由緒ある神社で宝永元年(1704)に至り社殿が大破の為再建されたのでありますが年々破損し今四脚本殿覆並拝殿を昔の由緒ある姿を残し新築銅版葺に改築しました。産土神として氏子崇敬者の敬神に篤い神社である。  敬白

                                 昭和49年5月

②.織物神社宮司のあいさつより

 機物神社の呼称及び七夕伝説との結び付きについては諸説ありますが、一説によると、古代、枚方市「津田」を「秦田(ハタダ)」、交野市の「寺」を「秦山(ハタヤマ)」、「倉治(クラジ)」を「秦者(ハタモノ)」といっていた時代がありました。
 神社の名称はこの「秦者」の人たちが祀る社ということで、「ハタモノの社」が本来の呼び名であったと思われますが、後に七夕伝説と結び付けられて、「秦」の機織りの「機」に換えて現在の機物神社のイメージ作りが行われたといわれています。
 起源は古く四~五世紀にあるとも考えられますが、五~六世紀の頃に秦氏に代表される交易商人によって組織された養蚕布織の技術を持った民が大陸から渡来して、一部の集団が東部産地の麓に定住した時といわれています。

 当時、交野山と太陽の位置関係で、ある特殊な日に特別な現象が起きることに着目して大陸から呪詛祭祀の習慣を持ち込んで、祭祀の場を「堂(クツ)」と言う神堂を設けたのが創まりではないかと言われています。特別の日の特別な現象とは、冬至の日に、機物神社の境内から交野山に重ね合わされた日の出が見られることです。
 このために、この場所は特別に神聖視された祭祀の場所となったようです。条件がよければ、冬至前後の数日間は交野山山頂に日輪が光り輝く直前に交野山の裏側に白道(シロミチ)(白い光の帯)が奔り、朝日山を鮮やかに浮き立たせる現象を一瞬見ることができるようです。祀ができる以前は交野山(岩屋)そのものが、機物神社の御神体であり誠に広大な地域を有していました。長岡京が当神社の御神体であった交野山の真北に配置されていることが道教的世界観に基づくものであることはよく知られているところです。
 後に和気清麻呂の申講により京都へ遷都し、平安時代を創始した桓武天皇もこの地をしばしば訪れています。因に現在の境内にある鳥居の内のひとつは交野山と伊勢神宮の両者に向かって参拝できるように設計されています。

 もう少し時代が下がると、室町時代の文明八年に、後土御門(ゴツチミカド)天皇の勅により神紙管領の卜部兼倶(ウラベカネトモ)の奉幣に始まるとされています。 祭神に出雲系氏族の神の 地代主命(トコシロヌシノミコト)や 事代主命(トコシロヌシノミコト)が弊社に含まれているところを見ますと、軍神としても尊ばれ、元亀・天正・文禄・寛文年間には、信長や光秀・秀吉・家康らによって手厚い庇護の手が差し延べられたことも記録されてありますが、祭神の起源は、農耕・産業を司るのが本来のありさまで、後世になって七夕伝説と結びついて、手芸・学問の神としても尊ばれるようになり現在に至っています。

【参考情報】

Wikipedia:織物神社

Localwiki:観音寺山公園