ここでは、萬年寺遺構 について紹介します。

在所:枚方上之町1・・・伊加賀梅林から意賀美神社への参道側面

【ポイント】

①.推古天皇(592-628)の時代、高句麗の僧が風景に魅せられて庵を開いた。

②.貞観2年(860)、醍醐寺の聖宝上人が伽藍を建立。

③.明治3年(1869)の神仏分離令で廃寺。

 ・現存遺構;万年寺標石、十三重石塔

④.明治25年(1892)9月~大正15年(1926)9月の間枚方小学校が存在。

 ・残存遺構;初代校長の顕彰碑

【関連写真】

 万年寺遺構2014_06_30 金只   

 万年寺十三石塔2013_01_10 金只   万年寺跡(河内14番目巡礼寺乃碑)2013_01_10 金只  

【補足説明】

①.元枚方観光ガイド「南場」氏の資料より

 二の鳥居の左手に旧万年寺の長松山萬年寺と刻む石標と、先の方の相輪部が崩れた九重塔(元は十三重)の石塔がある処が萬年寺の伽藍跡。

 推古天皇(600年代摂政は聖徳太子)のとき高麗の僧が来朝し、この地の風光明媚を賞し草庵を営む。その後、平安時代の貞観(ジョウカン)2年(869)、真言密教の聖宝上人が来て、伽藍を建立、萬年寺と呼ばれた。萬年寺は真言宗醍醐寺末寺であった。因みに京都醍醐寺(桜の名所)は貞観16年(874)聖宝上人の創建である。

 萬年寺は、明治初年の神仏分離令により明治3年に廃絶した。本尊・鐘楼などは、三矢の浄念寺に移された。長松山萬念寺の名は惟喬親王(844-897)の鷹が巣を作ったという老松(根上がりの松)にちなんで名づけられたと云われている。

 又、萬年寺は、この地で萬念通宝が鋳造されたことに因んで呼ばれるようになったと云われている。萬年通宝の鋳造は奈良時代(8世紀700年代)創業と言われる田中鋳物師の祖先かも?

【参考情報】

Localwiki :惟喬親王伝説