ここでは、走谷堂山古墳 について紹介します。

在所:加茂神社周辺の丘陵地帯

【ポイント】

①.走谷古墳は、万年山古墳と同様に淀川の通行権を支配した物部氏一族のものと考えられる。

 万年寺山・意賀美神社跡地に続く丘陵地帯がここ走谷。

②.光善寺の建立に当って走谷から山土出土した石棺は、光善寺境内にて保存。その石棺は、万年山1号古墳の石棺とかなり似通っている。

③.古墳跡地に神社と寺、麓に集落という万年寺山周辺と全く同じ構図。

【関連写真】
 光善寺で保存されている走谷の石棺
2012_07_19 金只
   

【補足説明】

古墳時代

①.古墳時代(4世紀頃)、交野郡は淀川の通行権を支配した物部氏の支配下にあったと云われている。

②.仏教の伝来に伴い、仏教派の蘇我一族と神道派の物部氏の主導権争いが行われた。

③.物部氏は、巻き返しを図って、交野郡を皇后の領地として献上した。その名残りが現在も交野市に残る私部の地名である。

④.万年山古墳は、物部氏一族のものと伝わっています。

⑤.万年寺山と走谷の間には、物部氏一族の伊香色雄(イカガシコオ)の屋敷にあったと伝わる意賀美神社が明治の初めまであった。

 (明治の神仏分離令と神社統合により現在地に移転)

奈良時代末期~平安時代初期

⑥.時代が進むと共に、古墳の在る丘は、パワースポットとなり祠が祀られてきた。

特に、古代においては、天変地変が起るとそれを鎮めることを祖先の霊にお願いすることが行われた。

⑦.平安時代に入るとこの地が和気清麿の領地となり、下賀茂神社から分霊して氏子共々、加茂神社を建立した。

⑧.ここの集落は、この移住した氏子を中心に出来上がったものと考えられる。 

戦国時代末期

⑨.光善寺の建立に当って、淀川の淵を埋め立てるために走谷から土砂を採取したと伝わる。

⑩.土砂採取時に出土した石棺は、そのまま光善寺に持ち込まれ、今も光善寺境内に保存されている。

  この石棺は、万年山1号古墳の石棺とかなり似通っている。