ここでは、遺構展示(木津川の残石) について紹介します。

在所:淀川資料館裏側公園内

【ポイント】

①.徳川幕府2代将軍秀忠が、元和6年(1620)から約10年の歳月をかけて行った大阪城再建に際し、

 木津川河畔の京都府相楽郡加茂町から切り出された石材の一つ。

②.元和1623)に木津川流域に点在していた残石を調査したところ約500個もの石が記録。

③.残石は、その後大阪城の修復用に用いられるも忘れられる。

③.昭和50年1975)11月、加茂町大野の木津川原や赤田川河口付近の護岸工事の際数十個発見。

【関連写真】

 木津川の残石2016_06_09 金只​   説明版(木津川の残石)2016_06_09 金只​   

【補足説明】

①.現地説明板より

 この花崗岩の切石は、徳川幕府2代将軍秀忠が、1620年(元和6年)からおよそ10年の歳月をかけて行った大阪城再建に際し、木津河畔の京都府相楽郡加茂町から切り出された石材の一つです。当時山城国相楽郡の一部を治めていた藤堂嵩虎が普請を行なうにあたって領内の加茂・笠置付近の石材に注目、嵩虎が担当した城内の石垣や城壁などに用いられました。元和9年(1623)点在した残石を調査した記録には約500個もの石が記録されていますから、当初どれほどの石材が切り出されたのしょうか。

 これらの残石は、その後大阪城の修復用に用いられましたが、木津川が流す大量の土砂に埋もれいつしか忘れられていたのを、1975年(昭和50年)11月、加茂町大野の木津川原や赤田川河口付近の護岸工事の際、数十個の残石が発見されました。

 現在木津川流域で赤田川河口中心に約60個ほどの残石が確認されていますが、大阪築城の壮大さもさることながら、これだけの巨石をも運んでいた淀川を中心にした舟運の状況は、人々と河川の重要なつながりを語るにふさわしい歴史の一駒です。               平成15年7月設置 淀川事務所