【枚方市の特徴】
1.河内湖の最深部に位置し、難波宮・平城京・平安京の中継地として古代から交通の要所であった。
河内湖に面した丘陵地帯には、早くから集落ができ、いたるところから遺跡が検出されます。
2.古代においては、中宮地区を中心に天皇家の狩猟地(禁野)であったことから市中心部が長い間原野のままであった。
禁野の外周には、宮人の遊興の言い伝えが多く残されています。
3.近世に入って淀川河川敷に秀吉が文禄提を築き、京街道が開設されてました。
文禄提と山裾の間では新田開発が進みました。
また、江戸時代に入ると東海道に編入され、宿場町が正式に位置づけられ、大名行列や街道を往来する人達も増加して、多いに賑いました。
4.明治維新後、禁野の原野に目をつけた軍部が演習地と利用すると共に、一大火薬庫も建設しました。
5.先の大戦では、日本最大級の軍需工場があったにもかかわらず、京都・奈良に近いことから空爆の対象から外され古民家集落がそのまま残りました。
6.戦後は、軍需工場跡地は大阪の背景地として住宅団地に生まれ変わり住宅都市として発展してきました。
※ 以上のことから、文化財は比較的少ないが、古民家集落は多く残存してます。
【枚方市の歴史】
1.古墳時代
瀬戸内→河内湖と難波宮・飛鳥宮・平城京・平安京中間点⇒⇒⇒⇒交通の要所として集落が開ける。
2世紀:藤田遺跡が営まれる。
3世紀:中宮ドンバ遺跡築造。
4世紀:仁徳記に外航船による淀川・木津川遡航の記録
4世紀:万年山古墳築造。
4世紀:牧野車塚古墳築造。
372:百済国王、倭国の援軍を要請
381:倭国軍、百済国・新羅国を従えて高句麗国と戦う
2.飛鳥・平安時代
天皇家を始め高級貴族達の遊猟地として貴族文化を謳歌した場所
507:継体天皇樟葉宮で即位。
530:百済派遣軍:近江臣毛野の遺骸を迎えた妻の詩(ひらかたゆ・・・)
538:百済の聖明王より仏教伝来、漢字伝来
587:蘇我氏が、物部氏を倒す・・・交野台地から物部氏消滅。
593:平野山瓦窯群で四天王寺・法隆寺の瓦製造。
593:高麗の僧恵灌が万年寺で草庵を営む。
663:白村江の戦いで百済国滅亡
664:百済王義慈王の子禅広帰化、難波の地を拝領
711::山陽道に楠葉駅設置
725:僧行基が久修園院建立
3.鎌倉時代・・・武家政治に移行し、政治の中心が鎌倉を中心とした東国に移り、この地は衰退していった。
4.室町・南北朝・戦国時代・・・両勢力の中間に位置する交野台地は、常時戦場と化し、荒廃していった。
5.室町・江戸時代・・・豊臣秀吉の出現で、政治の拠点が大阪に移り京・大阪を結ぶ交通の要所として再び復活した。
徳川家康によってもこの流れが受け継がれ、宿場町として繁栄した。
6.明治維新後・・・富国強兵の国策に基づき、大阪工廠に近く、且つ淀川に面した広大な原野が広がる交野台地に『一大火薬庫』が建設された。
7.第二次世界大戦中・・・連合軍は、京都・奈良の中間に位置する禁野火薬庫の空爆を計画するも、誤爆を恐れ中止する。
8.第二次世界大戦後・・・住民運動で禁野火薬庫・香里製造所跡地は、一大住宅団地に生まれ変わる。
枚方市は、河内湖の東湖畔に発祥した集落に端を発し、難波宮・飛鳥宮・平城京・平安京の中間に位置することから交通の要衝として発展してきた由緒ある土地です。
古墳時代の末期には、継体天皇が即位された樟葉宮伝承地もあり、飛鳥・平安時代には、天皇家を始め高級貴族達の遊猟地として貴族文化を謳歌した場所でもあります。
武家政治への移行に伴っては、交通の要衝故に、この地域は常に戦場と化して、多くの文化遺産が失われました。
武家政治の末期(桃山・江戸時代)に入って再び交通の要衝として復活し、宿場町として繁栄しました。
明治維新後は、富国強兵の流れの中で明治・大正・昭和かけて、大阪工廠に近く且つ広大な交野台地(天皇家縁の狩猟地跡)に『一大火薬庫』が建設された。
太平洋戦争では、京都・奈良に近いことから、連合軍は誤爆を恐れて空爆を取りやめたため、火薬庫周辺の集落の多くは被爆を免れた。
太平洋戦後は、平和都市を目指して、禁野火薬庫と香里製造所跡地に巨大な団地が開発され、2016年には人口も40万人を超えるに至り、中核都市として新たな出発を迎えることが出来ました。
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【参考情報】
枚方市ホームページ:枚方市
Wikipedia:枚方市