ここでは、『ひらかたの地名由来碑』 について紹介します。

在所:岡東町6-5

【ポイント】

①.枚方の地名由来は以下の3説が有力しされてます。

 ・「比攞哿駄」説・・・日本書記継体天皇24年10月の条:「比攞哿駄」より

 ・「平潟」説・・・・・河内湖にそそいでいたため、あちこちに潟が入り組んでいた、潟の周囲には平な入江。

 ・「白肩」説・・・・・神武天皇の東征で近畿への上陸地点が白肩之津であった。

【関連写真】

 地名由来碑2014_07_01 金只​   

 日本書記の歌2013_01_26 金只​   左裏面(歌の開設)2013_01_26 金只  右裏面(枚方の説明)2013_01_26 金只​  

【補足説明】

①.岡東中央公園の碑より

・正面 ​

枚方や笛吹き上がる近江のや 毛野の若子、笛吹き上がる

 「日本書紀」継体天皇24年10月の条:「比攞哿駄」より

・左側面 

 この歌の原文は万葉かな風に記されていて、比攞哿駄をひらかたと読みここ枚方を示していると考えられています。

 枚方が、文献にあらわれるのはこれが最初で、枚方は樟葉と共に古くから知られた地名です。

・右側面

 歌は、6世紀に任国の任那から帰る途上、対馬で病死した毛野臣を近江から枚方まで迎えにきた妻の哀傷を歌ったものです。

 枚方は、京街道筋の岡村など4村が江戸幕府から江戸幕府から指定され。枚方浜が淀川船運の中継港であったことから交通の衝として賑わいました。

 明治期には、郡役所が設けられるなど北河内地方における行政上の中枢の地を占め、  京阪国道や京阪電車の開通は、大阪近郊都市としての発展の基となるものでした。

②.2015年03月01日産経新聞 福島敏雄氏によると

 a).日本書紀の「比攞哿駄」説

   原文は以下の如く

    比攞哿駄喩、輔曳輔枳能朋樓、阿苻美能野   愷那能倭倶吾伊、輔曳符枳能朋樓

 毛野とは近江出身の毛野臣(ナノオミ)という武将で朝鮮半島に出兵したが、その帰途、対馬で病となり、死んでしまった。

 それを知らぬ毛野臣の妻が、わざわざこの地に迎えにきた。いまかいまかと心がはやったはずである。

 だが難波津からやってきた舟にのっていたのは、夫の亡骸だった。

 舟の舳先(ヘサキ)では、夫とともに戦地におもむいた「若子」、つまりわが子がかなしい葬送の笛を吹いていた、という意味である。

 b).「平潟」説

  河内湖にそそいでいたため、あちこちに潟が入り組んでいた、潟の周囲には平な入江ができていたので、「平潟(ヒラカタ)」という地名ができ。

    ・・・文献上の裏づけはありません。

 c).「白肩」説

 神武天皇の東征まで遡る。九州・日向国からはるばるやってきた神武の船団は、茅淳(チヌの海と結ばれた大阪湾から現在の上町台地の先端あたりを通って、まだ内海であった河内湾に進入した。

 生駒山麓にバッコしていた長髄彦(ナガスネヒコ)の軍団と対決するためだ。その上陸地点が 「河内国の草香芭(クサカノムラの青雲の白肩(シラカタ之津」   であった。この「白肩」が「枚方」に転訛(テンカした。

 この説にも弱点がある。「河内国の草香芭」は、現在の東大阪市日下(クサカ町に比定されているからである。枚方からは、ちょっと離れすぎている。ようするに、わからない。

③.インターネット「日本辞典」より

 古代、百済王氏はじめ百済系渡来人の本拠地。継体天皇が即位された地。東海道の枚方宿、淀川中継河港。715年に完成されたとされる「播磨国風土記」に「揖保郡枚方里に河内国茨田(マムタ)郡枚方里の漢人が到来」とある。「ひらかた」は、淀川水系の「平らな潟の入江」の意とする説。「平らな地方」の意とする説がある。また、「日本書記」にある白波が立ち寄せる「白肩(シラカタ、白潟)之津」から転じた説もある。