ここでは、一乗寺 について紹介します。

在所:岡南町3-16

【ポイント】

①.浄土宗寺院

②.創建は、伝教大師最澄(766-822) 阿弥陀仏と日吉大神の像を刻し、王城鎮護の寺社と定めた。

③.応仁の乱で焼失慶長5年本多政康により慶長5年に浄土宗寺院として再建

④.枚方城主が存在。

⑤.本田政康の娘(乙御前(オトゴゼン))が秀吉の愛妾であった関係で、当寺には豊臣家ゆかりの品が伝わっているとのことである。

⑥.鈴見が松の物語(枚方にも鶴の恩返しの話あり

⑦.河内西国三十三観音(北)の2番札所。

【関連写真】

​ 山門2012_12_05 金只  本堂2012_07_08 金只

 本田政康墓所2014_05_10 金只    本田政康墓標柱2014_05_10 金只

 【補足説明

①.南場氏資料より

究竟山往生院(クキョウザンオウジョウイン)一乗寺の歴史

 元は天台宗であった。由来は伝教大師が延暦寺を創建されたのち、その別院を都の辰巳の方角(裏鬼門)に求むべく、阿弥陀如来像を彫作して、これを小舟に乗せ瀬田川に放流するに、淀川に入り平潟の入江に漂着した所に創建されたのが当山一乗寺である。その坊舎は四十八を数えたと云われ(一部は京洛北の一乗寺村より移したとも)敷地は広大なものであったと思われる。

 その後、応仁の乱の兵火により諸堂悉く壊滅荒廃になり廃寺同然となってしまったという。時を経て、天正年間、時の枚方城主本多内膳正政康公が父母の追善のため、当寺の堂宇を復興(このとき日吉神社も)、慶長五年、浄土宗知恩院の光譽素覚大和尚(乙御前の茶道師匠を勤め後自害)を迎え浄土宗として開山された。政康公は枚方の名族百済王一族の出で、信州善光寺開創の本多善光と同流といわれている。秀吉の家臣として枚方城に居していたが、大坂夏の陣に出陣し戦死、大坂城落城ともに一族は滅亡した。

 本来ならば、当寺は廃寺となるところ徳川家に嘆願し寺領の没収を免れた。徳川家も浄土宗であり、当山の開山が知恩院より迎えられていたことが幸いしたと考えられている。当寺の山号寺号の扁額は知恩院五十三世順真上人の真筆である。現在の文庫住職は23代(昭和54年より)であるが、江戸時代の34代住職は三松氏(百済王氏末裔)が勤めている。この項一乗寺史文庫(フミクラ)住職談話より要約  H18.6.27 寺嶋・南場訪問

②.寺伝による

 当山は寺伝によると元は山城の洛北一乗寺村にあった天台宗の寺院で(現在は浄土宗)、現在地が平安京の裏鬼門に当るところから移され、伝教大師最澄が阿弥陀仏と日吉大神の像を刻し、王城鎮護の寺社と定めた事に始まるという。弘法大師も役行者、弁財天の2像を安置、天下鎮護の祈祷をしたと伝える。

 元久元年(1204)法然の高弟で浄土宗鎮西派の祖聖光房弁長が、南海地方に念仏行脚に出る途中風雨を避けて当寺に留錫し、六字名号を残した。これが寺宝の『名残りの名号』であると伝える。

 応仁の乱の戦火で寺は焼失するが、枚方城主の本多政康が慶長5年(1600)本堂及び日吉神社を再建。知恩院の雄譽雲厳を請じ開堂供養し、その高弟光譽素覚を中興開山とした。

 一乗寺の大檀那であった本多氏は百済王氏の末裔を称し、豊臣秀吉に仕えたが、大坂夏の陣のとき、徳川方に攻められ、枚方城は落城、政康は戦死し、本多氏は没落した。寺社は徳川氏に没収されたが、その後本多氏遺臣の尽力で復興されるも、往時の勢いは失われた。

 なお、政康の娘(乙御前(オトゴゼン))が秀吉の愛妾であった関係で、当寺には豊臣家ゆかりの品が伝わっているとのことである。

[参考資料] 『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社

   ふるさとを はるばるここに きみいでら はなのみやこも ちかくなるらん

​【参考情報】

インターネット:河内西国三十三観音(北)