ここでは、万年寺山遺跡1号石棺と万年寺山遺跡 について紹介します。
在所:枚方元町1・・・御茶屋御殿広場内南端
【ポイント】
①.展望広場・梅林・意賀美神社境内を含む万年山全体が古墳群であった。
・明治37年(1904)、枚方小学校校庭(現梅林の地)の拡張工事中に古墳発見。
・現意賀美神社神楽殿下辺りも古墳跡と思われ、付近一帯が万年寺遺跡があったと推察される。
・ここ意賀美神社から元意賀美神社跡地の伊加賀低区配水場、走谷古墳群と続く淀川を見下ろす枚方丘陵は、淀川の交通権を支配した物部氏一族のものと思われる。
②.隣の梅林付近では、三角縁神獣鏡(シンジュウキョウ)6面を含む計8面の鏡を出土。
③.一般的には万年寺山古墳と呼ばれているが、学問的には、万年山古墳である。
4世紀初頭の古墳とされ、禁野車塚古墳よりやや古いものです。
④.近辺で万年通宝が造られたとの言い伝えあるも、万年通宝は発見されてない。
⑤.御茶屋御殿広場では、平成7年(2005)、展望広場工事中に石棺を発見。
【関連写真】
【補足説明】
①.石棺説明盤より
この場所は枚方丘陵の最北端に位置し、淀川を眼下に望むことができる非常に眺望のよいところで、標高31mです。
平成7年(2005)10月14日、展望広場の工事中に、南に面するここで石棺が発見されました。
この石棺は、組合(クミアワセ)式箱形石棺と呼ばれるもので、幅38~40cm、高さ20~30cmあり、石棺内に推定身長170cmと思われる一人分の男性人骨が良好な状態で残っ 万年寺山遺跡1号石棺ており、頭を西に向けて葬られていました。
石棺の床面は、チャートという川原石(カワライシ)を使って石棺内一面に礫(レキ)が敷きつめられた特異なもので、周囲は北・南ともに長方形に加工された板石を3枚づつ使用し、東・西に小口石(コグチイシ)をそれぞれ1枚づつ配して四方を囲い、その上に厚手の板石状の蓋石(フタイシ)を何枚も置いていました。
また、出土遺物が一切ないため、時期を決定することは難しいのですが、礫床(レキショウ)の採用や石棺の構築法などから、古墳時代前期(4世紀代)のものではないかと推定されます。
②.枚方丘陵は、北端の万年山古墳、香里団地越えの伊加賀の宮山(意賀美神社旧地)、走谷古墳群、更に蹉跎神社、菅相塚と聖地が続いている。
背後の交野台地は、古代物部氏の勢力下にあったと伝わる。淀川を見下ろすこの丘陵地帯に大きな墓所を築いて淀川を遡る来朝者に対して権力の巨大さを強調した物部氏一族の墓所があったのではないかと推測される。
※ 物部氏は仏教渡来後、神仏争いに敗れて急速にその勢力を衰退していったが、すでにその時分には百済との交流が盛んに行われていた。
※ 枚方丘陵の南側走谷の加茂神社周辺でも石棺が発掘され、一連の古墳は淀川の交通権を握っていた物部氏一族のものと推測される。
・石棺は、光善寺建立地の埋め立てに当たって走谷から土砂を運んだ際出土。現在、石棺は光善寺で保管展示されている。