ここでは、三之宮神社 について紹介します。

在所:穂谷二丁目7-1

【ポイント】

①.祭神

 素戔雄大神(スサノヲノオオカミ)

 御食津大神(ミケツノオオカミ)

 大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)

 天津神(アマツカミ)

 住吉大神(スミヨシノオオカミ)

➁.自然石を「カミ」として拠りどころとした古代の磐座(イワクラ)信仰の名残が本殿背後の「屋形石」呼ばれる二つの巨石に見られる。

  ・当社が屋形大明神とも云われる所以

③.神社の歴史

 ・仁徳天皇29年に創建

  近郷五カ郷(穂谷・津田・芝(尊延寺)・杉・藤沢)の鎮守社としてスタート 

  中世から雨乞いの神社として崇敬が厚く、境内に千燈を掲げ大般若経を祈願する。

  降雨があれば住吉踊りを奉納し、御礼に燈籠を寄進した。

 ・鎌倉時代は、津田郷を支配した豪族中原氏が再興・修復を行った。

 ・大阪城鬼門鎮護のため豊臣秀頼が一の宮、二の宮と合わせて修復

  ※ その後三之宮の社名が定着

 ・江戸時代に建築された本殿は、二間社流造でしたが、現在の本殿は、平成4年(1992)に建替え。

④.見所

 ・拝殿軒先の灯籠;雨乞い→降雨で寄進されたもの

 ・本殿裏の屋形石;巨岩信仰のご神体

 ・立石(伝竜王祇);雨乞いをした時のご神体(請雨御返禮)刻字残存

 ・兜塚;由来不明

⑤.文化財

 ・三之宮神社の湯釜・・・市指定有形民俗文化財

【関連写真】

 神社入口2014_10_12 金只  参道(二の鳥居)2014_03_28 金只

 拝殿全景2012_10_11  金只  本殿2012_10_11 金只

 拝殿前兜塚2014_10_12 金只  立石(伝竜王祠)2014_10_11 金只  屋形石2012_10_11  金只

【補足説明】

①.現地案内板より

 社伝によると、仁徳天皇29年の創建とされ、古くは穂谷・津田・芝(尊延寺)・杉・藤阪の鎮守社であった。平安・鎌倉時代には、この五カ郷を支配した豪族中原氏が、たびたび願主となって再興・修復を行い、五カ郷住人はこれに参加した。

 慶長年間豊臣秀頼は大阪城鬼門除鎮護のため、交野郡の一の宮(牧野阪)・二の宮(船橋本町)・三の宮を修復させたことにより、当社に三之宮の社名が定着した。

 本殿裏にある2個の巨石は屋形石と呼ばれ、御神体として祀られており、当社が屋形大明神とも呼ばれる所以である。

 当社は中世より雨乞いの神社として崇敬があつく、境内に千燈を掲げ大般若経を転読して祈願するのが常であった。降雨があれば住吉踊を奉納し、また御礼の燈籠を寄進した。境内に現存する灯篭は、ほとんど雨乞い返礼に寄進されたものである。            2000年3月 枚方市教育委員会

②.由緒(大阪府神社庁第三支部ホームページより)

 祭神:素盞雄大神、御食津大神、大國主大神、天津神、住吉大神、仁徳天皇

 社記によれば、神功皇后九年秋、新羅国征討の時当地を御行幸されましたが、山深く谷険しく路難いため天神地祇に御祈願されました。その時神現あり「難路故各所ニ物ヲ置キ導キ奉ラント告ゲ給ウ」果して行軍の先々に白幣を筒竹に挟み所々に置き道案内をした、なを「皇后ニ軍謀秘策ヲ告ゲ給フ」皇后無事平定され御凱旋後喜ばれて幣白を寄進された。

 その後仁徳天皇二十九年春額田大中彦皇子に社殿建営を命じ創立した。孝謙天皇天平勝寶二年、勅して息筒大明神の神号を授け給い、文徳天皇仁壽二年、惟喬親王を遺はして正三位勲六等の宣下あり。後冷泉天皇治暦元年正月二十九日山火に係て灰燼に帰したが、八年後の延久四年再建される。

 後堀河天皇貞応元年九月賊徒の為に社殿等焼失しければ、嘉禄二年三月中原宗兼外當郷住の三十餘人に依りて再興せられ、爾来数回改造修復を加えられしが、慶長年間に大阪城の鬼門除けとして、豊臣秀頼により再興され交野三の宮と称した。

 今の社殿は寛永十一年の再建である。創建当時は息筒大明神と称したが、尾形大明神、住吉大明神と呼ばれたが、鬼門除けの交野三の宮と称した後三宮屋形大明神、三宮住吉大明神等呼ばれていた。

 祭式は最も厳粛に行はれ、往時は古軒と言われる氏子百三十九軒の古軒者は裃帯刀で拝殿に着座して祭紀を行っていた。古軒百三十九軒は交野三十九士の裔にして永禄年間では五ヶ郷(津田村、藤坂村、杉村、尊延寺村、穂谷村)の侍であった。

 祭礼に際して、嘉吉年間以来、住吉踊り を神前に催したが、応仁の乱に中絶、寛文二年再興したが安永六年に再絶している。その後雨乞の祈願祭の時にときどき行っていたが、現在は絶無となっている。

 現在の社殿は平成の御大典を記念して、老朽著しい御社殿、拝殿等建造物を氏子崇敬者の皆様方のお参りを良くする様、宮司・役員・総代たち力を合わせ、平成二年より造営工事・境内整備を行い、平成四年に竣功致しました。

②.た津田史には「仁徳29年神異により勧請、元明天皇・和銅3年(710)に社殿成建」とある。

 記紀によれば、神功皇后は仁徳天皇の祖母にあたることから、仁徳帝の創建というのだろうが、神功皇后は神話伝説上の人物で、その朝鮮出兵は敦賀から筑紫という日本海ルートでなされているから、出兵時の行幸云々はおかしい。

 ただ、当社の東南方・京都府下に入った山中に皇后の祖父とされる加爾米雷王(カジメイカヅチ)を祀る“朱智神社”があり、この辺りから交野市にかけて皇后に関する伝承が幾つか残っている。皇后の出身氏族とされる息長氏がこの辺りにからんでいるのかもしれない。

 ③.また社務所の方の言では、

 「古く、穂谷の神奈備山(神が降臨する聖なる山)にあった祠を麓の当地に遷した」

との伝承があるという。

 集落近くの山にある“山宮”と、その遙拝所として麓に設けられた“里宮”という古い神社の形を伝えるもので、当社が地元住民の産土神として崇拝をうけていた古社であることを意味し、神功皇后伝承などは後世の付会といえる。

 当社は、古くから『息筒大明神』あるいは『三之宮屋形大明神』などとも呼ばれるが、豊臣秀頼が大阪城の鬼門除けとして一の宮(片埜神社)・二の宮とともに三の宮として修復させた以降、『三の宮』と呼ばれるようになったという(慶長年間1599~1615)。ただ、この秀頼改修を記す棟札などがないこと、豊臣家滅亡の2年後・元和3年(1617)の屋根葺き替え、その19年後の寛永11年(1634)の総建替などから、秀頼による改修を疑問視する説もある。今の社殿は寛永11年総改修のものという。

④.祭神

 スサノヲ以下6柱を祀るが、どの神が主祭神なのか不明。山宮・里宮という古い形態からみると“山の神”が推定されるが、山の神は田の神・農耕神でもあるから、食物の神である“ミケツ大神”が古くからの祭神とみることもできる。

 今の主祭神とみられるスサノヲについては、枚方市史に「古く屋形石(後述)をご神体とし『三之宮屋形大明神』と呼ばれていたが、のち“牛頭天王社”を勧請し、云々」とあることからみて、本来の祭神はゴズテンノウで、スサノヲは明治以降のものであろう。

 オオクニヌシは国土造成の神または福の神(ダイコクさん)、アマツカミは高天原系の神々の総称、住吉大神は物部氏の祖神・ニギハヤヒが平安以降に替わったもの、仁徳天皇は創建伝承からのものであろう。

⑤.末社--春日神社・稲荷神社・厳島神社・神明神社

 玉垣に囲まれた神域内、本殿を挟んで左右2棟ずつ4棟の祠が並んでいるが、末社というだけで、どの祠がどの神を祀るのかは不明という。

⑥.屋形石  本殿裏の玉垣で囲まれたなかに、大きな縦長の岩が2個鎮まっている。いわゆる“磐座”(イワクラ)と呼ばれるもので、断面が三角形をしていることから、これを屋根の形とみて『屋形石』と呼ばれ、そこから『三之宮屋形大明神』とも呼ばれたらしい。
 磐座とは神が降臨するとされる聖なる岩で、そこを聖地・聖域として祭祀が繰りかえされ、次第に、その岩自体を神として崇拝するようになったものを指す。降臨石・腰掛石・影向石(ヨウゴウイシ)などとも呼ばれ、大きさや形など多種多様な形態をもつ。常設の社殿がなかった昔、このイワクラを臨時の祭場として神を迎えて祭祀をおこなったという。
 同様なものに、複数の石を人工的に組み合わせた“磐境”(イワサカ)がある。  
 
⑦、立石(伝竜王祠)  拝殿左の巨木の下に、注連縄を掛けた高1mほどの『立石』がある。枚方市史に

 当社の縁起に水神がからむとは伝えていないが、当郷旧跡名勝誌(天和2年1682)に、『三之宮に善女竜神の小祠あり』とあるように、古くから竜王の祠があり雨の神とされていた。

 この竜神は、今昔物語にいう、弘法大師が守敏と雨乞いの法力争いをしたとき京都・神泉苑に勧請して雨を降らせた竜神とあるのがこの立石だと思われる。今は雨ざらしだが、昔き祠に収められていたらしい。
 
 また「当社は雨乞いの神社として崇敬が篤く、境内に千燈を掲げて大般若経を転読して祈願するのが常であった」(由緒書)ともいうように、当社での雨乞いは、近郷5カ村の各氏神に祈っても雨が降らないとき、最後の手段としておこなわれた5カ村あげての雨乞いで、太鼓や鐘を急調子で叩きながら神社に繰り込み、まず竜王の祠を叩き壊し、ご神体の石を西側の崖から穂谷川へ突き落として降雨を祈願、雨が降れば引き上げたともいう。  

 広く雨乞いに際して、川の源流や泉・井戸などに牛馬の首を投げ入れる習俗があった。俗信では、水の神が坐す処に不浄なものを投げ入れると、神が怒って雨が降らせるという。当社でご神体を川に投げ入れるのも同じ趣意である。

 これに対して、あの世とこの世とは逆さになっており、この世で不浄なるものはあの世では聖なるものへと逆転する。故に、この世の不浄なるもの、すなわちあの世での聖なるものを供物として送ることで、神を活性化させて、水神本来の働きすなわち降雨を促すのだ、ともいう。
 
 この竜王祠の立石と上記の屋形石との関係は不明。牽強付会すれば、古く、三角形は女性を表し立石は男性とされることからみて、両者合わさって子孫繁栄・五穀豊穣を祈ったのかもしれない。 

【参考情報】

インターネット:ふるさと枚方発見『三之宮神社』