ここでは、三川合流 について紹介します。
【ポイント】
②.昔は、淀城の下流にあった巨椋池の端に一気に流れ込み洪水の原因となった。
③.最初に治水対策対策を実施したのは、豊臣秀吉である。
④.明治元年の大洪水で最初に木津川の付け替えが行われた。
⑤.明治18年の大洪水を経て、明治43年三川の合流点を川下に移動。
※その後も現在に至るまで改修は続けられている。
⑥.宇治川・木津川の間の背割堤防は桜の名所。
【関連写真】
【補足説明】
①.2016年04月07日産経新聞
桂川・宇治川・木津川が並流した後、やがて交わって淀川となることを云う。
明治18年の大洪水きっかけに明治29年、河川法が制定され、官民あげての淀川改良工事が行われた。
新淀川が開削され、瀬田川(南郷)洗堰や毛馬洗堰、こう門ができ、三川合流域も宇治川を巨椋池から完全に分離させ、桂川と宇治川の間に背割堤を設けるなど合流域を西に移した。
大正6年に大塚切れが発生し、合流域の再改良に乗り出し、桂川の河道を北側に広げ、三川間に2本の背割堤を再築造して並流域を以前より下流にのばして逆流を防ぎ安定性を向上させた。
②.インターネット『淀川三川合流』より
京都と大阪の境、天王山と男山に挟まれた地で宇治・木津・桂というそれぞれ大きな川があわさり、淀川となる。
古来様々な治水工事が行われ、現在の姿になったのは明治から大正にかけてである。
今はまず宇治川と木津川が合流し、次いで桂川が合流しているが、昔は巨椋池の端に一気に流れ込んでいた。
【参考情報】
インターネット情報:三川合流物語