ここでは、上庄南之口樋跡の碑 について紹介します。

場所:出口三丁目29 (腰掛石の近く) 

【ポイント】

①.淀川の川床の上昇により、沿岸の村々の排水調節用の為の横堤防を設置。

②.文化4年(1807)6月、連日の雨で堤防(寝屋川木屋地区との境の赤井堤防)が決壊。

③.赤井の樋番の五兵衛が、自分の村の為に堤防を切ったと思い込み、襲撃・惨殺。

④.五兵衛の徳を称して伊加賀・木屋地区の中間地にこの碑が建てられた。

【関連写真】

 上庄南之口樋跡の碑
2012_01_14撮影 金只
  旧赤井川付近の赤井乃碑
2012_04_12撮影 金只

枚方市と寝屋川市の市境の旧赤井川の寝屋川側に赤井堤の碑は現存する。

【補足説明】

①.事件の概要

 ・背景:淀川の川床の上昇により、沿岸の村々の排水調節用の為の『樋』を設置

     この樋をめぐって村々の対立・争いが絶えなかった

 ・事件:文化4年(1807)6月、連日の雨で堤防(赤井堤防)が決壊。下流の農民は、樋番の五兵衛が、自分の村の為に堤防を切ったと思い込み、襲撃・惨殺

 ・結果:文政3年(1820)新たな樋門を設ける事で、訴訟問題が和解成立

 この樋門は用水路改修工事で撤去されたが、五兵衛の徳を称して伊加賀・木屋地区の中間地にこの碑が建てられた。

②.かって、寝屋川の香里西之町と枚方の南中振の境界付近に赤井川が流れていた。しかし、赤井川が流れ込む淀川の川床が高くなり、その堤だけが残されていました。この堤を赤井堤(あかいづつみ)と呼んでました。

③.文化4年(1807)5月24日の大雨で枚方三矢村の堤が切れ、大洪水となったとき、赤井堤は友呂岐地区の被害を防いだ。

④.しかし、再びの増水により樋管及び堤防は破れたことを知らざる木屋村では、上庄の百姓が勝手に堤を切ったものと思い、村民が押し寄せ上庄樋番人の五兵衛に乱暴を加え、彼は負傷し、同年6月7日に死亡した。

【参考情報】

Localwiki:赤井堤記念碑