ここでは、二宮神社 について紹介します。

在所:船橋本町一丁目 707

【ポイント】

①.祭神:建速須佐之男命(牛頭天王)櫛稲田姫命(須佐之男命の妻)、大巳貴命(大国主之命)

②.創立:仁徳天皇(313-399)の勧請の説、738年(聖武天皇の天平10年)の説

     河内の牛頭(カワチノゴズ)さんとして庶民に慕われた。

③.再建:用明天皇(585)、桓武天皇(797、織田信長(1573)、豊臣秀頼(1584)

     二宮牛頭(ニノミヤゴズ)天王社 → 豊臣秀頼の修復後は、二ノ宮神社

④.末社:愛宕神社 ;火避けの神さま

     猿田彦神社;道祖神(交通安全の神さま)

     天照大神 ;皇祖神(伊勢神宮)、御影(オカゲ)様参り でインターネットの世界で有名に!

     稲荷大明神;商売繁盛の神さま

⑤.狛犬足紐:狛犬の足に碑もを巻き付けて迷人の帰宅を願うと叶うとの信仰。

⑥.岩座(イワクラ):裏庭に存在、仁徳天皇の初期の時代のご神体?

⑦.古代寺院:古代の瓦が出土(併設されていた模様)

【関連写真】

 南面鳥居2012_10_29 金只     全国から寄せられた奉納品札2012_10_29 金只  

 本殿全景2012_10_29 金只  本殿狛犬2013_09_05 金只  

 西参道鳥居2012_10_29 金只  西参道2012_10_29 金只  

 西参道入口案内板2012_10_29 金只  西参道入口棟札2013_09_05 金只  

補足説明

 

①.現地案内板より

 社伝によれば、仁徳天皇の時代に創始されたと言います。戦国時代には交野郡の二宮牛頭(ニノミヤゴズ)神社と称されました。

 豊臣秀頼は大阪城鬼門鎮護(チンゴ)の神社として崇拝し、慶長8年(1603)には片桐且本(カタギリカツモト)を奉行として本殿・摂社(セッシャ)などを修理させました。その時の棟札(ムナフダ)は今も当社に伝えられています。

 江戸時代初期までは船橋・養父・宇山村の守社(シュジャ)であったのが、養父・宇山村とも村内産土神(ウブスナガミ)を勧請(カンジョウ)し分離した。

 8世紀後半に祠官(シカン)をつとめた井上桐停(イノウエドウテイ)・金橋は詩歌(シイカ)にすぐれ、坂村の岡田本房(ホンボウ)三浦蘭阪ランハン)と文人サロンを形成しました。彼らが神社に奉納した和歌も多数のこされています。

 なお、当社の付近には船橋遺跡(弥生時代中世)がひろがっています。なかには古代の瓦が多数出土する地点があり、幻の寺跡(テラアト)が中に存在する可能性を秘めています。                                         1992年枚方市教育委員会

②..祭神

 ・主祭神は一ノ宮(片埜神社)と同じで須佐之男命(すさのおのみこと)です。

 ・2番手は稲田姫命(くしなだひめ); ヤマタノオロチの生贄にされそうになっていたところを、須佐之男命に

より助けられ妻となりました。

 ・3番手は大国主命(おおくにぬし);須佐之男命の試練に絶え出雲を手中に治めましたが、天照大神に出雲を

  譲ることになります。

③.当社の創始は、

 ・社伝では仁徳天皇(313-399)の勧請で行われたとある。

 ・久修恩院上座知西の記した社蔵文書『牛頭天王記』によると、738年(聖武天皇の天平10年)とある。

 ・社伝によると、桓武天皇(781~806)、文徳天皇(850-858年)が祭祀したとある。

④.再建と呼び名の変遷

 -1).戦国時代には交野郡の二宮牛頭(ニノミヤゴズ)天王社と呼ばれていた。

 -2).豊臣秀頼の修復後二ノ宮神社と称するようになった。

   徳川家康は、豊臣家の財力を減らすべく、社寺の修復・造営を秀頼に勧めた。

   秀頼は傾きかけた家運を挽回すべく、畿内諸国で社寺の修復・造営を実施した。

   豊臣秀頼は一宮、二宮、三宮を大阪城鬼門鎮護神社として修復した。

   当社本殿(1間社流造)摂社御旅 所などが再建された。

 -3).現在の本殿は、正徳3年(1731)棟札による)に再建。楠葉村の大工小山喜兵衛正種である。

 -4). 昭和56年(1981)の解体修理時に屋根は銅板で葺き替え。

⑤.「北河内のお宮」・・・大阪府神社庁第三支部より

 当社は枚方市の北部、船橋本町(旧大字船橋)北方村里に接し、杉・桧・楠・榊等の樹林の中の社域に鎮座す。

 御祭神は建速須佐之男命、田姫命、大巳貴命の三柱の神にして、社記伝える所に依れば、仁徳天皇19年春の勧請にして、用命天皇は当国を堅め給ひし矛を納めて郷の巨鎮と為し桓武天皇は延暦16年11月大納言藤原継縄を遣わして奉幣祭祀せしめ、文徳天皇斉衡3年11月復た大納言藤原良相を遣わして奉幣祭祀せしめ給ひしという。

 二宮牛頭天皇と号し、天正年中織田信長は深く当社を尊崇し社殿に修繕を加え、采地を寄せたりしも、豊臣秀吉に至りて没収せられたるを、慶長8年豊臣秀頼は片桐東市正且元に命じて本殿及び摂社・御旅所・別堂を造営せしめ、且神苑を附し大阪城鬼門除けの社と為して崇敬せり。同時に従来牛頭天王と称したりしを改めて二宮神社と称するに至れり。

 当時の棟札今も尚存ず。

 明治維新後、境内にありし別堂即ち地蔵堂をば浄土寺に移し、明治5年村社に列せられたる後、同41年神饌幣帛料供進社に指定せられたり。

 例祭は往時より菊月9日なりしも、今は改められて10月15日に行われる。

【参考情報】

インターネット:愛宕神社;エナガ先生講義メモ

Wikipedia   :猿田彦神社

Wikipedia   :天照大神

Wikipedia   :稲荷社