ここでは、仁和寺氏神社 について紹介します。
【ポイント】
①.祭神
・菊理比売命(キクリヒメノミコト)
全国の白山神社の白山比咩神(シラヤマヒメノミコト)同一神とされる
・応神天皇(オウジンテンノウ)
・菅原道真(スガワラノミチザネ)
②.この地は、かって京都仁和寺の所領であったことに由来する。
③.沿革
・神社は、室町時代初期の創建と伝わり、白山権現社と呼ばれていた。
・鎌倉時代初期、後鳥羽・後高倉院の生母の七条院が京都仁和寺殿の菅領となり、仁和寺庄も七條院領となる。
・のちに室町院へ寄進され、持明院統の所領となる。
・歴応5年(1342)南北朝時代、持明院統の花園上皇は妙心寺再興の際に、仁和寺庄を妙心寺に寄進。
・応永6年(1399)大内義弘の謀反の際、妙心寺寺領は幕府に没収。
男山八幡宮の社領となり、八幡宮を勧受。
・寛永10年(1633)永井信濃守が菅原道真公を祀り天満宮とする。
・延宝2年(1674)堤防決壊で神殿流失し、現在地に移転。
【関連写真】
表参道入口2023_05_05 金只
表参道2023_05_05 金只
一の鳥居と標柱2023_05_05 金只
参道2023_05_05 金只
手水舎2023_05_05 金只
大木に囲まれて拝殿2023_05_05 金只
本殿2023_05_05 金只
神牛2023_05_05 金只
旧神殿跡2023_05_05 金只
標石(神社再建記念碑)2023_05_05 金只
顕彰碑(東光治氏)2023_05_05 金只
由緒書き2023_05_05 金只
【補足説明】
①.現地観光案内板より
仁和寺庄の古跡
仁和寺は、「にわじ」または「にわいじ」と呼ばれています。地名は、京都の仁和寺(にんなじ)の所領であったことに由来すると考えられます。
鎌倉時代初期に後鳥羽・後高倉院の生母であった七条院が京都仁和寺菅領(寺務を司る権利)したことによって、仁和寺庄も七条院となり、のち地頭職(地頭としての権利)は室町院(暉子(キシ)内親王へ寄進され、北朝方の持明院統の所領になりました。この時の『室町院御領目録』を見入ると。上仁和寺庄・下仁和寺庄の二つに分かれており、以後、二庄として史料に表れます。
南北朝時代に入って持明院統の花園上皇は暦応5年(1342)に妙心寺を再興したとき、上仁和寺庄と下仁和寺庄の地頭職を妙心寺に寄進しました。しかし、応永6年(1399)大内義弘が将軍足利義満に謀反を起こした応永の乱が勃発し、敗死した大内義弘と妙心寺の住職持拙堂が親しかったために妙心寺領は室町幕府に没収され事実上の幕府御料所となりました。
江戸時代の仁和寺村は、延宝2年(1674)と享和2年(1802)に2回の大洪水があり、淀川の堤防が決壊しました。特に享和2年の決壊の時には堤防が105間(約190m)にわたって切れたため、浸水は遠く現在の八尾市や大阪市生野区・平野区まで及びました。俗に「仁和寺・点野切れ」といわれている大災害です。
ここ、旧仁和寺村の氏神社の創建は室町時代の初期と伝えられ、もとは白山権現社でしたが、寛永10年(1633)永井信濃守の支配に伴い天満宮となりました。遠方2年の堤防決壊時に社殿が流出していまったため、現在の一にうつされました 。
➁.仁和寺氏神社の由緒
鎮座 寝屋川市仁和寺本町四丁目11番地
御祭神 菊理比売命
応身天皇
菅原道真公
由緒
往古より当社は白山権現を奉斉してきたが応永乱後、この地方が男山八幡宮の車両となったため、八幡宮を境内に勧請した。その後寛永10年領主永井氏の勧めで菅原道真公をお祀りし、天満宮と称するようになった。
延宝2年、淀川堤が決壊して社殿が流された祭、この地区の中央に再興された。昭和62年(1997)8月不慮の災いに罹わりましたが、ご神体は安泰であり、早速にも氏子数敗者の格別の御奉賛を賜り平成元年9月吉日竣工、同年同月23日~24日の遷座奉祝大祭を斉行
祭日 体裁 10月18日
③.東光治氏顕彰之碑
本神社は明治44年以来佐太神社に合併されていたが東光治氏は神社復興を発願し、10余年の尽力ののち、昭和18年77月26日、ようやく内務所より復旧許可を得、同8月25日還幸祭を執行、再興を完了したのである。
氏は寝屋川市仁和寺189番地にて出生
東京大学理学部動物学科卒業
京都大学奉職
万葉動物研究家
郷土史編集 府文化財専門委員
昭和39年6月20日没
享年 69歳
昭和46年10月吉日 部藩一同
【参考情御】
Wikipedia:菊理媛神
寝屋川市ホームページ:仁和寺荘の古跡