ここでは、河内街道筋の特徴 ついて紹介します。・・・編集替え中

在所:伊枚方公園駅~香里園駅の河内街道筋

【ポイント】

①.河内街道とは、枚方の桜町交差点から府道21号線八尾方面線を経て八尾駅に至る集落をつなぐ道を呼ぶもので、街道として正式に認知されたものではないが、俗称的に「河内街道」と呼ばれた。

②.背後の枚方丘陵は物部一族の淀川支配の拠点。

③.伊加賀の地名は、物部氏の後裔6代目になる伊香色雄(イカガシコオ)がこの地にあって淀川一帯を支配したことに由来する。

④.この丘陵の麓に広がった田畑一帯を伊加賀集落と呼んだ。

⑤.室町時代に秀吉の文禄提が淀川の河川敷に文禄堤を築き、その内側が田畑として開発された。

⑥.その田畑を水害から護るために、誓願寺前から枚方丘陵下の集落まで横堤防が作られた。

⑦.江戸時代に入って、米本位制の経済運営が本格化し、光善寺を囲むように河川敷が田畑として開拓された。

 その外側の堤防を連結して、現在の淀川堤防付近に堤防が築かれて京街道もこの堤防上に移された。

⑧.伊加賀東町は、枚方宿の西見附に連なる交通の要所にできた集落である。

  ・京街道、河内街道、宮山参道、枚方宿裏通り、京街道裏通が交錯する西見附隣接地点。

  ・文禄堤と丘裾の間の田畑で農業を営む農民の住居。

  ・枚方宿での使用人の住居。

  ・宿場入口の旅籠。・・・宿場内の旅籠は、参勤交代時は庶民の利用が不可のため、宿場外に旅籠が発達。

【補足説明】

①.伊加賀の地名由来(元観光ボランティアガイド南場氏の資料より抜粋)

 物部氏の祖先は、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)であり、天孫降臨より先に天照大神の命により天の磐船に乗って天野川の上流にある磐船神社あたりに天下ったとも云われる。

 そのとき随行した物部氏の後裔6代目になる伊香色雄(イカガシコオ)の姉の伊香賀色許売(イカガシコメ)は、第9代開化天皇の妃(キサキ)であり崇神天皇を産んでいる。

 伊香色雄が、淀川一帯を支配し、邸内に水神を祀ったのがことの始まりと言われている。

 その社がこの宮山に移された時期は不明であるが、延喜式神名長(927)に載っている。

 神仏分離令により萬年寺が廃寺され、物部一族の古墳があったとの言い伝えの万年寺山に、明治42年に日吉神社・須賀神社と合祀された。

 この地域の地名「伊加賀」は、この伊香賀色許売からきたものと伝わる。

 従って、万年寺山古墳は、同古墳に銅鏡が副葬されていることから当時の朝廷に関わりがあり、地理的要因も考え4世紀頃の実力者である物部氏伊香色雄又は伊香賀色許売ではないかととも伝わる。

【参考情報】

Wikipedia:河内街道