ここでは、伝王仁墓について紹介します。
在所 | 枚方市藤阪東町2丁目2220番2ほか |
種別 | 府指定文化財 記念物 史跡 |
指定 | 昭和13年5月11日、平成5年3月31日 |
所有 | 国、大阪府 |
【ポイント】
・・・枚方と朝鮮半島の絆、歴史は政治によって作られる典型例
①.王仁博士とは、4世紀末に百済国から日本に漢字と儒教を伝えたと伝えられる人物
・論語10巻、千字分1巻を携え渡来・・・古事記、日本書紀による
・平成2年の花の万博のテーマ『咲くやこの花』(古今和歌集)の和歌は王仁の作。
②.江戸時代に儒教が盛んになり、この場所に「博士王仁之墓」の墓標が建てられた。
・もともとここには、歯痛を鎮める霊験あらたかな「鬼塚」と呼ばれる自然石があった。
・元和2年(1616)、「王仁墳来潮記」で藤阪村の鬼(オニ)墓は王仁墓が転化したものと主張。
・正徳23年(1731)、儒学者「並川誠所」がこの書を根拠に、領主「久貝正順」に崇敬するように進言し、
「博士王仁之墓」の墓標が建てられた。
③.近代に入り大阪府は、「伝王仁墓」として史跡に指定。
・明治13年(1879)、「伝王仁墓」として大阪府の顕彰史跡に指定。
・明治23年(1889)、招堤村の家村孫右衛門が「有栖川宮」ぼ筆になる「博士王仁墓」の石碑を建立。
・平成5年(2003)、「伝王仁墓」として大阪府指定文化財(史跡)に指定。
④.平成4年(1992)、善隣友好館を建立。
⑤.平成11年(1999)、韓国首相の金鐘泌氏が来日植樹。
⑥.平成18年(2006)、日韓友好団体などの寄付で百済門を建立。
※ 大阪市北区大淀中町にも墓所跡地が存在する。
【関連写真】
【補足説明】
①.藤阪駅前の案内板より
大阪府史跡伝王仁墓
王仁博士は古事記・日本書記によると応神天皇の招きで朝鮮半島の百済から論語千字文を携え渡来され日本文化の始祖として江戸時代よりこの地に祀られていた。
・享保16年(1731)京都の儒学者並川五一郎が文献により現墓所中央の自然石を王仁の墓と考証、
領主久貝稲葉守に進言、「博士王仁之墓」と刻んだ墓碑をうしろに建立した。
・昭和12年(1937)北河内郡菅原村山中信造村長が大阪府に史跡指定を上申。
・昭和13年(1938)大阪府は古文化記念物等保存顕彰規則により史跡13号に指定した。
・昭和15年(1940)財界文化人有志により周囲に玉垣を寄進。第二次世界大戦のあと、草むらに埋もれ忘れ去られていた。
・昭和59年(1984)王仁の祖国韓国無窮花(ムクゲ)植樹運動本部から贈られた「むくげ」の花植樹を機会に市民有志で「王仁塚の環境を守る会」を結成。墓域浄化奉仕を続けている。
「むくげ」の開花は7月~9月で約10種200本が咲き乱れる。韓国国花無窮花の新名所。
年間行事
・月例会・・・毎月第2日曜日あさ
・納涼むくげまつり・・・8月16日日没
・博士王仁まつり・・・・11月3日
王仁塚の環境を守る会
②.大阪府指定史跡王仁墓・・・説明板より
江戸時代中期の京都の儒学者であった並川誠所が、享保16年(1731)に枚方市禁野本町の和田寺の記録から、王仁の墓が藤阪御墓谷にあることを知り、この地を調査して現在の自然石の立石を発見し、これを王仁博士の墓としたものです。
日本古事記によると、王仁博士は古墳時代初期の4世紀末に朝鮮半島の百済国から渡来し、「論語」10巻、「千字文」1巻をもたし、古代から学問の祖として崇敬されてきました。
王仁の子孫は文筆をもって朝廷に仕え、西分氏(カワチノアヤウジ)として羽曳野市の古市付近に居住し、周辺は河内随一の渡来文化の集積地として、発展していきました。 1998年 枚方市教育委員会