ここでは、刈捨高札場跡 について紹介します。
在所:桜町2-23
【ポイント】
①.寛文6年(1666)、江戸幕府が発令した「諸国山川掟」に基づきこの場所に刈捨高札場が設けられた。
・この場所では、定期的(4月、5月、7月、9月)な葦の刈取を指示
②.平安時代から室町時代の半ばまでは耕地面積はほとんど増加しなかった。
③.戦国時代に入って1地域一円支配の強大な権力が育ち、各地で耕地開発(新田開発)が進められた。
④.その結果山林が荒廃し、全国で水害が多発した。
⑤.徳川幕府は全国統治がなった後、治水事業に取り組み、「諸国山川掟」を発令した。
⑤.川筋仕置高札では、以下のようなことについて指示を掲げた。
・堤外地のススキ・柳・竹などの雑木の定期的な刈取。
・堤外地で農耕を禁ずる。
・堤上に竹・木を植えたり家を建てることを禁ずる。
・水流を阻害する細柵を作らないこと。
【関連写真】
【補足説明】
①.出口村・伊加賀村の新田開発について
天和3年(1683)の枚方宿絵図では出口村の集落内を通過している。
同年には三矢村・出口村堤外地での新堤が計画されたが、摂津唐崎村など14カ村から治水に障害があると中止の要望が出された。
しかし、開発は進められ、新たな堤は順次整備され、元禄13年(1700)に一本につながった。
享保2年(1717)の柿木敏男家絵図では、街道筋が新堤に移ったように描かれている。