ここでは、北谷大西坊跡 について紹介します。

在所:京都府八幡市高坊・・・本社北側

【ポイント】

①.大西坊の住職、専貞は赤穂家家老・大石内蔵助の実弟でした。

②.専貞の跡を継いだ覚運(カクウン)は内蔵助の養子でした。

③.大石良雄は太西坊に立ち寄り、仇討ちの大願成就を石清水八幡宮に祈願したといわれています。

④.覚運が内蔵助の討入りを助けたとの評判で多くの寄付が集まり、坊の再興ができた。

【関連写真】

 展望広場入口の案内板2019_12_19 金只   案内板(北谷大西坊跡)2019_12_19 金只   

 慶應2年(1866)の絵図   

【補足説明】

①.現地説明板より

 神と仏を合わせて祀っている石清水八幡宮には、江戸時代までたくさんの坊(小さな寺院)があり、「男山四十八坊」と呼ばれました。男山展望台とその周辺にも、僧侶の住む坊が立ち並んでおり、その西奥にあったのが「忠臣蔵」とのゆかりで知られる「大西坊」です。

 大西坊の住職、専貞(センテイ)は赤穂家家老・大石内蔵助の実弟で専貞の跡を継いだ覚運(カクウン)は内蔵助の養子でした。元禄14年(1701)、江戸城で内蔵助の主君・浅野内匠頭が、吉良上野介の侮辱に耐えかねて刃傷におよんだ「松の廊下事件」。その7日後、内蔵助は大西坊に手紙を書き「赤穂城を明け渡したのち、14~15人で仮住まいできるところを上方で探してほしい」と依頼しています。討ち入り後には、覚運が仇討を手伝ったことが評判となり、たくさんの寄付が集まり、坊を再興したと伝えられ、現地には立派な礎石が残されています。

 この覚運の墓が、近年、八幡市の善法律寺で発見されました。善方律寺は「もみじ寺」とも呼ばれ、秋には紅葉が美しい境内一画に覚運は眠っています。