ここでは、問屋場跡 について紹介します。
在所:三矢町7-12
【ポイント】
①.江戸時代は、枚方宿で最も賑わった場所。
・片山珍古堂付近~道標(枚方街道)の間に問屋場2棟・馬繋ぎ場・荷揃場・旅籠が連なっていてた。
・天領のこの地は物資の集積場となり、万年寺山の南参道に沿いに蔵が林立し、万年寺山に向かって蔵谷の地名を残す。
③.問屋場とは
・公用の宿泊手配・荷物の引き継ぎや飛脚の事務を処理。
・問屋場は、人足100人、人馬100疋の常備が義務付
100人100匹を超える分の人馬役を近隣の村々(助郷(すけごう)村)に負担させた
・問屋場役人(宿役人)は、幕府が任命した。
④.枚方宿では、問屋場役人を岡新町、岡村、三矢、泥町の4村の庄屋が勤めた。
⑤.この史跡を残すために、片山珍古堂の前に街角美術館(伝馬所と郷蔵)を設置。
【関連写真】
珍古堂2012_05_22撮影 金只
街角美術館2015_05_13撮影 金只
【補足説明】
①.枚方宿の問屋場の建物が、横の駐車場付近にあったと伝わる。
②.問屋場とは、
問屋場(トイヤバ)は、江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった(本項の語意に於ける「問屋」とは、運送業を意味する)。
業務の主宰者は問屋と称され、その助役の年寄、さらに人馬の出入りや賃銭などを記入する帳付、人馬に荷物を振り分ける馬指などの者がいた。通常の時は交代で出勤するが、大名行列などの大通行があるときは全員が詰めることになっていた。
明治元年(1868年7月27日)、明治政府は問屋場を伝馬所(デンマショ)、責任者を取締役(1駅あたり定員2名)と改めた。その後、明治3年(1870)4月9日に取締役が廃止されて伝馬所は官(駅逓司)の管轄下に置かれ、明治5年(1872年)に伝馬所を含めた宿駅制度そのものが廃止された。
③.問屋場で常備の義務
・東海道:100人、100匹
・中仙道:50人、50匹
・日光、甲州、奥州道:25人、25匹
④.万治3年(1660)に枚方宿に初めて助郷が設けられ枚方、伊加賀、走谷、中振、出口の5ケ村が指定された。
元禄7年(1694)3月から交野郡、讃良郡、茨田郡から28ケ村が新たに指定された。指定されると遠く山城や丹波まで馬を借りに行ったと言われ、助郷村の負担は大変多かった。
⑤.問屋場には幕府から任命された問屋役人が2人いて公用人の宿の手配と人馬引継ぎの業務を行った。
⑥.前の宿から運ばれて来た荷物は、この問屋場で引継がれ、次の宿まで、枚方宿の責任と負担で運ばなければならなかった。
※ この機能が明治に入って引き継がれたのが第3種郵便局である。
⑦.枚方宿では、問屋場役人を岡新町、岡村、三矢、泥町の4村の庄屋が交代で勤めた。
問屋役人2人の下に年寄、人馬方などいろんな役人がいて業務を行った。
⑧.枚方の場合、淀まで公用の荷物を運んでも、帰りは空荷になる場合が多かった。
その理由は、下りは淀川舟運を利用して運ぶ人が多かった。従って、この場合人馬には往復料金の支払が行われた。
⑨.現存している問屋場
・甲州街道 府中宿 → 中久本店(東京都府中市)
・中山道 奈良井宿 → 上問屋史料館(長野県木曽郡楢川村)
・中山道 醒井宿 → 旧醒井宿問屋場(滋賀県米原市)
【参考情報】
インターネット:絵で見る保土ヶ谷宿・・・問屋場のトラブル
・絵図の後に、荷駄の馬が間に合わずトラブルになった状況を足利文書から引用している。
・行列は夜明けと同時に宿場を出発するので、荷駄運びの人馬の出発に当たっては常に混乱を生じた。
特に馬の調達が間に合わないことが多かった。
インターネット:庄野人馬宿継立図
インターネット:藤枝宿人馬継立図
インターネット:歌川広重庄野宿人馬継立の図
Localwiki:街角美術館(伝馬所と郷蔵)