ここでは、国指定史跡桜井駅跡公園 について紹介します。
在所:桜井一丁目3
【ポイント】
①.古代律令制度下の駅家の跡
➁.大正10年(1921)国の史跡に指定され、現在『史跡桜井駅跡史跡公園』として整備されている。
③.歴史
・和銅4年(711)摂津国島上郡(シマガミコオリ)に大原駅(オオハラノウマヤ)が設けられたと『続日本史』に表れ、これが起源と伝わる。
・兼武3年(1336)の湊川の戦いに楠木正成が嫡男正行に河内への帰国を説得し、帰らしたと伝えている。
・明治9年(1876)西国街道沿いに「楠公決児乃處」碑が英国公使ハリー・P・パークスが建立したのが始まり。
・その後、個人の土地寄進などにより公園として整備され、大正10年(1921)に国の史跡に指定。
④.この場所に建てられた記念碑;現地案内板より
・楠公父子別れの石像
【関連写真】
標柱(史跡桜井駅跡)2023_05_27 金只
標柱(史跡桜井駅跡)2023_05_27 金只
案内板(史跡桜井駅跡)2023_05_27 金只
公園内配置図2023_05_27 金只
標柱(苑内壹千貳百年)2023_05_27 金只
明治天皇御製碑2023_05_27 金只
楠公六百年祭記念2023_05_27 金只
旗立松2023_05_27 金只
手水鉢2023_05_27 金只
標識(国指定史桜井駅跡)2023_05_27 金只
楠公父子決別之所碑2023_05_27 金只
楠公父子別れの石像2023_05_27 金只
【補足説明】
①.案内板(国指定史跡 桜井駅sと)
史跡指定 大正10年 敷地面積4,415㎡
明治9年(1876)西国街道沿いに「楠公決児之處」碑(裏面は当時英国公使ハリー・S・パークスの英文による碑文)が建てられたのが初めてとなり、明治末年に結成された「楠公決児之處就公修興会」によって敷地の拡張が始まり、大正2年(1913)に「楠公父子決別之所」碑の建碑式が行われました。更に同5(1916)には、敷地約3.972㎡が個人によって島本村に寄付され、整備が進められました。同年境内地が島本村公園にい指定されました。同10年()には国の史跡として指定されました。
昭和にはいってからは、敷地の北と南に拡張され、昭和3年(1928)には「桜井楠公会」の事務所が建てられました。同6年(1931)には、「明治天皇御製」碑が建てられ、同10年(1935)には「大楠公600年祭」が盛大に行われました。戦前の桜井駅跡周辺には、記念品を売る店や食堂があり、記念絵葉書の販売もありました。また、大阪財界の重鎮の一人であった旧三和銀行元取締役であった一瀬粂吉氏ら京阪地方の匿名の有志によって桜井駅跡は拡張され、現在「島本町立歴史ぶんっか資料館」になっている「麗天館」が建てられました。
➁.案内板(忠義貫乾坤碑(チュウギケンコンヲツラヌクヒ)
明治27年(1894)5月、島本村内と一部近郊有志約150名によって建てられました。当時は「楠公訣児之處」と並んで玉垣の中にありましたが、昭和14年(1939)桜井駅跡の拡張工事に伴い、現在地に移されました。
③.
【参考情報】
Wikipedia:桜井駅跡