ここでは、大塚の堤防切れ について紹介します。

在所:大塚町三丁目25・・・淀川右岸堤防法面

【ポイント】

①.大正6年(1917)10月01日朝、淀川が突如決壊、濁水は大冠(オオカンムリ)地域一帯を水没。

②.昭和5年(1930)、水との闘いを伝える記録として洪水記念碑が建てられた.。

【関連写真】 

 大塚切れ(記念碑全景)2013_02_24 金只  記念碑2013_02_24 金  説明板2013_02_24 金只  

 堤防越流の濁流(説明版より)2013_02_24 金只  本町筋まで溢れた濁水(説明版より)2013_02_24 金只  大塚決壊箇所復旧工事(説明版より)2013_02_24 金只  

 

【補足説明】

①.現地案内板より

 淀川は、古くから「母なる河」として親しまれ、政治、経済、文化などの発展に重要な役割をになってきた。その流れは、瀬田川から宇治川を経て大阪湾にいたる73.1kmに及ぶ。

 古代の淀川は上流の木津川とともに、大和王権の重要な外交ルートを担っていた。また、近世以降は、重要な水上交通路として多くの川舟がいきかい、三十石船の船頭衆による浪々とした船唄は、両岸の風景を見事に唄いあげ、旅人はおおいに旅情をなぐさめられたという。

 この船唄は、三十石船が姿を消した明治時代以降も唄いつがれ昭和60年に市の、平成14年に大阪府の無形民族文化財に指定され、保護団体の大塚保存会が、その唄声をいまに伝えている。

 淀川の近代的な修築工事は、明治7年(1874)、オランダ人技師デレーケらの指導によって改修計画が策定され、翌年から着工されたことにはじまる。

 しかし、大正6年(1917)10月01日朝、連日の暴風雨で増水そていた淀川が突如決壊、濁水は大冠(オオカンムリ)地域一帯を水没させ、JR以南の多くの町並みも軒下まで浸水した。被害は、大阪府下で死者・行方不明者・負傷者22人、浸水家屋等15,500戸にのぼり、この水害を、当地では「大塚切れ」と呼んでいる。

 その後、堤防の改修工事が進んだ結果淀川本流の破堤はなくなり、昭和5年(1930)、水との闘いを伝える記録として洪水記念碑が建てられた。

             平成20年3月              高塚市教育委員会

 

【参考情報】

淀川華扇事務所:淀川大塚切れ